未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

子ども集団生活施設

日本が新福祉国家に生まれ変わる時、ぜひとも創設してほしい公的機関が、子ども避難所です。避難所といっても、家族の誰かが身体的・精神的暴力を振るっているときだけ、子どもを保護する施設ではありません。親とケンカして家を飛び出し帰りづらいといった時でも利用できる施設です。名称は「子ども集団生活施設」といったものでよく、通常、3才程度の年齢層別(小学校低学年生の施設、中学生の施設など)で子どもを収容します。

子どもがなんらかの理由で家を出たいと思ったら、以前の記事に書いた「家庭支援相談員」にまず相談し、家庭支援相談員が適切に判断して、子どもを施設に入れます。このとき、家庭支援相談員は子どもの家族ではなく、相談してきた子どもを第一に考えます。家を飛び出すことが子どもにとって有害と思える根拠がなければ、子どもが家を出たい理由をうまく説明できなくても、あるいは全く説明しなかったとしても、原則、子ども集団生活施設に入れるように手配します。親や兄弟と性格が合わないといった理由でも、子どもは大学を卒業するまで、あるいは成人するまで何年でも施設で生活できます。施設の管理人は、十分な教育を受けた国家資格保持者になります。子ども集団生活施設は、どんな子どもでも365日自由に身一つで入居できるように、子どもが施設に来るまでの交通費は公費負担とします。

なお、子ども集団生活施設は子どもを甘やかす施設ではありません。掃除は当番制で、風呂とトイレは共用です。食事も学校給食程度の予算で運営されます。しばしば炊事、洗濯などの家事も当番制で、寝る部屋も一緒になります。原則、服もジャージと防寒具程度しか支給されません。それ以上のものを要求するなら、年齢によって異なる定額の小遣いから買わなければなりません。掃除当番をさぼったり、勉強部屋で雑談したり、ケンカしたり、その他のルール違反を起こしたら、子どもはすぐに施設退去となります。

そのような窮屈な施設に入りたがる子どもなどまずいない、と思う人は恵まれた子ども時代を送った人でしょう。私なら両親のいる家より、上のような集団生活施設で子ども時代の全ての時間、生活したかったです。もっと言えば、今でも、上のような集団生活施設で暮らしても構いません。当たり前ですが、集団で生活すれば、費用が節約できますし、エネルギー消費も抑えられます。私は長年一人暮らしをしていますが、私一人のために浴槽や洗濯機や台所があるのはもったいない、多くの人で共用すればいい、といつも思っています。

なお、上記の施設は私の理想です。現実にそんな程度で退去させていたら、子ども集団生活施設の平均在所日数は3日未満になってしまうでしょう。だから、それぞれの施設で特性を持たせるべきです。「ルール違反をしても退去にならないが、厳しく叱られたり、罰を課されたりする施設」、「用意している服に予算をかけている施設」、「クリスマスや正月などのイベントを盛大に祝う施設」、「掃除に力を入れる施設」、「全ての年代の子どもを入所させる施設」などです。家庭支援相談員は、相談してきた子どもの個性に合わせた入所施設を選ばなければいけません。

子ども集団生活施設の定員は、子ども10人に1~2.5人くらい必要と推測します。私のように、子ども時代の全てを親元でなく集団生活施設で暮らしたい、と切望している人だけでも、100人中5~10人はいるのではないでしょうか。さらに、一時的に暮らしたいと考える子どもを受け入れるための部屋をいつも余分に用意しておきます。もし未成年の子どもが2000万人いたとしたら、子ども集団生活施設の定員は200万人~500万人あることになります。その運営費用は、施設に収容されている子どもたちの保護者たちから徴収する費用と公費で分担します。

人口減少で不要になった家や部屋をリフォームすれば、施設新設の初期費用は節約できます。それ以外にも費用はかかるでしょうが、全ての子どもに自由と平等などの基本的人権を保証するための値段としては、安いものだと考えます。

子どもが生まれる家庭を選べないのに、家庭の影響を強く受けて成長していくことは、誰もが知っていることです。この人生最大ともいえる不公平を少しでも是正するため、ここで提案したような施設は創設すべきです。

家庭支援相談員の仕事内容の具体例

例1

中学生の子どもの夜遊びに悩む親が家庭支援相談員に相談した。家庭支援相談員が家庭支援相談センターに戻って上司に報告し、上司は同様の悩みを持つ親が同じ地区に複数いることを突き止める。上司が中学のスクールカウンセラーに連絡したところ、学校の不良仲間が集まって夜遊びしていると分かる。家庭支援相談員が対象者の親全員と協議させ、親たちが毎日交代で夜回りをすることで、警察沙汰になる前に、子どもたちの夜遊びを止めさせた。

例2

家庭支援相談員が担当する50程度の家庭に、結婚希望があるのに未婚の女性と男性が何名もいた。家庭支援相談員がそれぞれの希望を聞いて、お見合いを斡旋し、適切な助言を行うことで、その多くを結婚させた。また、他の家庭支援相談員とも未婚男女の情報を共有し、お見合いを設定し、双方に客観的な助言を伝えたことで、その地域全体での結婚率を大幅に上昇させることに成功した。

例3

家庭支援相談員が一人暮らしの高齢者の家に訪問したところ、本人の認知症が重度に進んでいると言って、ヘルパーが本人の近況を詳しく教えてくれた。いくら毎日掃除に来ているからといって本人に代わってヘルパーが答えるのはおかしいと思った家庭支援相談員が調査したところ、当のヘルパーが高齢者と結婚していると判明した。財産目的の結婚であることは明らかだったので、「適切な機関」に相談して、結婚を無効にさせた。(金持ちの高齢者が溢れる日本で、ヘルパーなどが財産目当てで結婚する事件はよく聞きます。しかし、私の知る限り、現在「適切な機関」は存在せず、この社会道徳的に好ましくない事件がほぼ野放しになっています)

家庭支援相談員の調査の有用性

前回の記事に書いたように、家庭支援相談員は1年に1回以上、日本の全家庭を訪問して、全構成員に家庭の問題を聞き取り調査します。そんな制度を発足させたら、莫大な税金がかかってしまうのは事実です。

かりに一人の家庭支援相談員あたり平均50家庭を担当するとしましょう。現在の日本の世帯人数の平均は2.47人です(2017年厚生労働省)。50家庭だとしたら、123.5人を担当することになります。日本の人口は1億2676万人なので(2017年総務省)、全ての家庭を網羅するために、約100万人の家庭支援相談員を公費で雇う計算です。1人あたりの人件費を平均500万円としたら、それだけで5兆円の税金が毎年新たに必要になります。決して安い費用ではありませんが、家庭支援相談員を適切に運営できれば、それくらいの価値は生みだせる、と私は確信しています。

もちろん、完璧な家庭など存在しないので、あらゆる家庭には問題があります。家庭支援相談員がそれら全てに対処し、解決するのは不可能です。たとえば、国家の過干渉を防ぐためにも、「認知症の義母が嫁の財布から1000円盗んだ」といった軽犯罪まで家庭支援相談員が警察などの機関に伝えるのは適切でないでしょう。どこまで、どのように支援すべきかについては、いろいろな条件によって変わってきます。ただし、一人一人の不満を調査記録して、適切に相談に乗ることは、家庭支援相談員の最低限の仕事とすべきと考えます。

たとえば、浮気について調査して、解決まで全て支援していたら、家庭支援相談員は何人いても足りないかもしれません。しかし、統計をとってみたら、予想外に日本全体の浮気の総数は少なく、家庭調査員だけで解決まで導いた方が夫婦関係を円満にできてよかった、という結果になるかもしれません。

また、家庭内にいるギャンブル依存症者の相談があったとします。「あなたが力づくで止めればいいでしょう」と家庭支援相談員が説教しただけで、なんの協力もせずに終わりました。しかし、全国で統計をとってみると、その被害人数と被害総額は想像以上で、ギャンブル依存症相談員を特別に配置してでも解決するべきと判明して、新しいギャンブル対策機関ができた、ということになるかもしれません。

なんにしろ、実態を調査して統計的に把握することが重要です。どの問題がどれくらいあって、どれくらい深刻かが分かれば、対策が立てられます。逆にいえば、それが分からなければ、対策や効果を論じても、空転するだけでしょう。まずは、実態調査するために、一部の地域だけでもいいので、家庭支援相談員の創設を提案します。

家庭支援相談員

私の提案する新福祉国家で「一人の取りこぼしもない社会」実現のため特に提唱したいのは、家庭支援相談員の創設です。

家庭支援相談員は、日本中全ての家庭に訪問し、実態調査を行います。3世代家族であっても、一人暮らしであっても、1年に1回以上訪問して、家庭で何か問題がないか聞き取り調査します。原則として、各家庭にいる全員が一人ずつ、家庭支援相談員の調査に答えます。なんらかの事情で、被調査者が家庭現場で悩みを正直に相談できない場合、担当の家庭支援相談員に連絡をとって、別の適切な場所で相談に乗ってもらうことができます。

家庭支援相談員が小児虐待や家庭内暴力や高齢者虐待を発見したりしたら、警察や適切な機関(児童相談所や配偶者暴力相談支援センターや地域包括支援センター)に連絡します。また、被支援者が生活保護を受けられるのに拒否されていたり、その他の社会保障を受けられる権利があるのに知らなかったりしたら、適切な援助が受けられるように手配します。当然ながら、家庭支援相談員には守秘義務が課されて、得られた情報は正当な目的以外で利用されることはありません。

このように提案すると、家庭という私的な聖域まで国家が干渉すべきでない、と考える人もいるでしょう。確かに、公的機関による家庭への過干渉は抑制されるべきです。ただし、私が上のような制度を提案している理由は、公的な場だと明らかに人権侵害事件なのに、家庭では許容されている事件の被害者を救うことです。特に、家庭での影響を甚大に受ける無力な子どもを救うことが目的です。ある程度教育に携わったことのある人なら、幼稚保育と小学校と中学校と高等学校と大学の全てを合わせた教育の影響よりも、家庭での教育の影響が大きいことは、実感しているはずです。

世の中には育った家庭のせいで、死ぬまで不幸な人生を送っている人が何名もいます。そんな人たちを救う制度は現在のところ、ないか、著しく未整備です。「聖域」や「プライベート」や「自己責任」や「家族愛」といったお題目の下、少なくない家庭では基本的人権が無視されています。

家庭支援相談員のような制度がいまだ存在しないこと、さらには、そのような制度が必要という主張さえないこと自体が、私にとっては意外です。それくらい世の中は恵まれた家庭で育った人たちによって動いているのかもしれません。家庭支援相談員を切望している、あるいは切望していた社会的弱者たちは日本だけでも何百万人もいるはずです。しかし、その人たちの社会改革を訴える声は全く聞こえてきません。だから、ここで私が主張しています。

なお、家庭支援相談員制度に莫大な税金がかかるのは間違いありません。費用の問題点や、どこまで調査して、どのように支援すべきなのかについて、漠然とですが、これから二つの記事で述べておきます。

女が貧乏な男と結婚していれば少子化など解決する

女性就業率の上昇を止めることが現実的でも、理想的でもないことは誰もが知っているでしょう。だから、女性就業率上昇が問題になるのは、次のような事実がある時です。

「ほとんどの女性は自分より収入の低い男性と結婚しない」

高収入の女性が増えたのに、それでも女性が自分より収入の高い男性を求めているなら、それは結婚率が下がります。少子化も進みます。

少子高齢化は現代日本の最大の政治、経済、社会問題だと私は思います。その少子化の大きな原因の一つが「女が自分より収入の少ない男と結婚しない」ことです。こんな事実は、世界中のほぼ全ての人が知っているはずです。しかし、この巨大で重要な障害物について誰もが見て見ぬフリをしています。まるで「女が男をお金で評価する権利」は永久不可侵と世界中の人が信じているかのようです。

これについて女性が声を上げないのは仕方ないにしても、どうして男性までもがこの不道徳を糾弾しないのでしょうか。そこには大きな理由が二つあると私は考えています。

一つ目は「社会的な影響力のある男性は収入の高い勝ち組の人たちだけ」だからです。負け組の少数派男性の声が社会に届くことはないのでしょう。

もっとも、これだけが理由ではありません。特に、男性の生涯未婚率が23%となっている現在、負け組男性は無視できない勢力になっているはずです。

二つ目の理由は「収入の少ない男が負けを認めないから」だと私は推測しています。「共産主義が失敗した思想的理由 」にも書いた通り、下層大衆ほど保守的です。保守的な男性は昔ながらにプライドが高く、女性を見下しており、女性に収入で負けている事実を認めようとしません。だから、現状の社会システムが、自分の人生に不利になっていることに気づけません。

しかし、そんなくだらないプライドは捨てて、社会の底辺にいる男性たちは、上記のような女性の不道徳を糾弾すべきです。女性差別うんぬんの話があれば、「それは分かります。だから、女性も男性を収入で差別すべきではありません」と反論すべきです。

また、そういった男性たちの目を覚まさせるように、社会の底辺にいない男性、あるいは男女差別にうるさい人権派の女性たちも「女性が男性を収入で評価する差別」を批判すべきです。

なお、お金持ちの男性が女性たちに人気になるのを防ぐのは不可能ですし、不自然でしょう。美人の女性が男性たちに人気になるのを防ぐのは不可能で、不自然なのと同じです。ただし、「男性が美人でない女性とまず結婚しない」わけでは決してないように、「女性がお金持ちでない男性とまず結婚しない」わけでない状況にするのは十分に可能なはずです。もしそうなっていないとしたら、現在の男女関係に社会的に修正すべきところがあるはずです。

国際結婚統計の不都合な真実

国際結婚統計を見たことのある人は少ないでしょう。これほど結婚が女性優位で決まっている証拠はないと思います。

まず、日本人女性と日本人男性で、どちらが国際結婚しているか知っているでしょうか? 「日本人女性は世界で一番モテる」という俗説は、私の人生で10回以上は聞いたことがあります。日本人女性が日本人男性よりモテるのは間違いのない事実ですが、別にそれは日本人に限った話でなく、そもそも自由恋愛が一般化した社会なら、女性は男性より桁違いにモテます。しかし、現実に結婚するとは限りません(結婚できるのに、女性が拒否する場合があります)。Wikipediaの「国際結婚」の2015年の厚労省統計を見れば分かる通り、日本人男性の国際結婚が14809に対して、日本人女性の国際結婚は6167です。1975年以前、それこそ日本がそれほど豊かでなかった昔は日本人女性が日本人男性より多く国際結婚していたようですが、この30年間ほど、日本人女性の2倍以上の数の日本人男性が国際結婚しています。

ここで注目したいのは、日本人女性と日本人男性で結婚相手の国籍が大きく変わることです。たとえば、日本人―中国人カップルなら、80%以上が中国人女性―日本人男性です。一方、日本人―アメリカ人カップルなら、80%以上が日本人女性―アメリカ人男性です。このように、国際結婚の相手がアジア系なら日本人男性とのカップルが多く、西洋人なら日本人女性とのカップルが多いのです。フィリピンやタイはそれがあからさまで、95%近くが日本人男性とのカップルです。

これを「日本人女性がアジア人にモテない」と解釈する人はさすがにいないでしょう。その全く逆で、「日本人女性がアジア人など相手にしていない」が正解であることは誰だって分かるはずです。もしかしたら、「日本人女性は高嶺の花すぎて、アジア人男性は声をかけづらい」と考える人もいるかもしれませんが、多くのアジア人を知る私が断言すると、それはありえません。日本人女性は、西洋人と同等かそれ以上に、アジア人にもモテます。

一方で、日本人男性がなぜアジア人と結婚しているかといえば、日本人女性が日本人男性すらも相手にしていないからです。日本人男性がアジア人と好きで結婚しているというより、日本人女性と結婚できないので、仕方なくアジア人女性と結婚しています。その証拠に、日本人女性-外国人男性は年齢差がそれほどないのに、外国人女性-日本人男性のカップルの平均年齢は妻30.9才、夫43.3才となっています。若い頃からアジア人との結婚願望を持っていた日本人男性が40才になってようやくアジア人と結婚できた、なんてことは普通に考えてないでしょう。

もっとも、「結婚での女性の圧倒的優位」だけでは「なぜ日本人男性が日本人女性の2倍も国際結婚しているのか」の答えにはなりません。さらに、日本が西洋と同等にアジアより遥かに豊かな国で、「結婚後に財産が共有されるから」です。

「結婚における女性優位」と「結婚後の夫婦財産共有」は、女性差別問題を語る上で避けて通れません。そう私は思うのですが、極めて不思議なことに、この二つの大問題が議論されることは、全くと言っていいほどありません。女性にとって極めて不都合な真実なので、女性側から言及しないのは無理もないかもしれません。謎なのは、男性側からもそんな声が一切上がらないことです。その理由については、次の記事で論じます。

ところで、「国際結婚統計ほど結婚が女性優位で決まっている証拠はない」と述べましたが、もちろん「国際結婚統計ほど人種差別が明らかに出ている統計はない」でもあります。特に、日本人女性が結婚でアジア人を差別して、西洋人を崇拝している姿勢は露骨です。

恋愛における女性優位の証拠

お見合いパーティーというものを知っているでしょうか。その名の通り、未婚の男女が複数集まって、結婚相手を探すパーティーです。大抵、男性の参加料金は女性より高くなります。女性は無料のところも少なくありませんが、男性は安くても3000円はします。こんなところにも男女差別はありますが、ここでそれは無視します。

そのお見合いパーティーの職員がこんなことを言っていました。

「たとえば、気になる異性に〇をつけてください、という設定なら、男は自分を選んでくれたら喜んで受け入れるつもりなので、全てに〇をつける。しかし、女は100人男がいても、せいぜい3人の男しか〇をつけない。下手をすれば、一人の男にも〇をつけない」

複数のお見合いパーティーで同様の発言を聞いたので、これは間違いないと思います。社会学者は、ぜひ上のような社会実験をして、その統計結果を学術論文に発表してください。

私はお見合いパーティーに10万円以上費やしました。そんな大金を費やして、このような現実を嫌というほど知りました。「恋愛での女性優位」など世間の常識だったのでしょうが、バカな私は男女平等だと錯覚していました。

そんな経験から学んだことですが、極論すれば、女性はどんな男性ともつきあえます。それこそ、一般の男性並みの熱心さで迫れば、ほとんどの男性は落ちます。しかし、女性はそうしません。「絶対に結婚したい」と言っている人でも、断られるのを恐れているのか、女性からは告白しません。そのくせに、女性は男性を平気で断ります。ひどい女性になると、何度も男性の愛情を無下に断っていて、「誘われてばっかりで、うっとうしい」と言ったりします。

なぜ若い女はそこまで傲慢なのでしょうか。それは放っていても、男の方から求愛してくれるからです。その中で、気に入った男を選べばいいだけです。気に入らなければ、歯牙にもかけない態度をとっても構いません。むしろ、はっきり意思表示した方が相手に勘違いさせなくて、どちらにとっても幸せと女は思っているかもしれません。「自分が相手の側だったらどう思うか」などと想像する必要もありません。男がふられたショックで自殺したって、女が責任を問われることもないのですから。一方、どんなに純粋に愛していようと、ふられた男が女を追いかけまわすのは犯罪なので、警察を呼んでも大丈夫です。

このように「恋愛の女性優位」が厳然として存在しているので、あらゆる学者が「なぜ男性が結婚しなくなったのか」ではなく、「なぜ女性が結婚しなくなったのか」と考えるのは妥当なのです。

このように書くと「恋愛と結婚は違う。結婚は男性優位だ」との反論も出てくるので、次の記事にその反論が間違いである証拠を示します。

 

※「女が貧乏な男と結婚していれば少子化など解決する」にも書きましたが、この記事は「男性が女性を基本的に警戒しないが、女性は男性を基本的に警戒することの証明にしかならない」ので、より適切な「恋愛の女性優位の証拠」を「イジメた者はイジメの経験をすぐ忘れるように振った者は振った経験をすぐ忘れる」に書きました。

性的少数者問題が少子化よりも重要だと考える人たちへ

2017年11月16日の朝日新聞の「オピニオン&フォーラム」に興味深い意見がありました。アメリカのラストベルトにあるオハイオ州の88ある群の一つで、民主党の委員長を務めている人物の愚痴です。

「労働者たちに民主党は『労働者、庶民の党』と伝えてきたが、民主党はメディアを通じて(性的少数派の人々が)男性用、女性用のどっちのトイレを使うべきか、そんな議論ばかりしているように見えた。私が大統領選挙中に聞かされたのは『民主党は雇用よりも(性的少数者の)便所の方に関心がある』という不満だったのです」

似たような不満を、私も日本のリベラルな若者たちに持っています。日本のリベラル派は、性的少数者を救うことの優先順位が異常に高い、と感じることが少なくありません。特に、若い女性たちです。現代の日本を大局的に見れば、それと比較にならないくらい、少子化が重要であることは明白だと思うのですが、理論上は少子化を促進するはずの性的少数者の保護を優先します。

日本では保守だろうと、リベラルだろうと、指導的立場にいる人たちは本当の社会的弱者に接する機会もないため、その気持ちが分からないのでしょうか。世の中には、浮気できるほどもてる男性と、それに苦しむ女性たちと、性的少数者たちしかいない、と本気で思っているのでしょうか。何度も女性にふられて、その度に傷心している大多数のもてない男性が存在することなど想像もできないのでしょうか。現実に、大多数の女性は、そのもてない男の誘いを人生で何度も断ってきているのに、その男性たちの気持ちを考えることもなく、浮気するほどもてる男性たちの誘いを待っているのでしょうか。

少子化の主因は夫婦間の子どもの数が減っているのではなく、結婚率が下がったことにあるのは、もはや常識でしょう。それでは、なぜ結婚率が下がったかといえば、「仕事と家族」(筒井淳也著、中公新書)によると、「女性の相手への希望が高くなったから」と推定しています。

この本に限りませんが、結婚率の低下の問題になると、なぜか「男性が結婚しなくなった」ではなく、「女性が結婚しなくなった」が主題になります。女性が結婚していなければ、当然男性も結婚しないはずなのに、そう表現されます。男性が主語になる場合、「結婚できなくなった」と表現されることもあります。一方、女性が「結婚できなくなった」と表現されることは、まずありません。もっと不思議なのが、この男女差別について(大多数の人にとっては男女区別なのかもしれませんが)、誰も疑問の声をあげていないことです。そこには、いわゆる常識や暗黙の前提があるわけですが、そこまで深く考察しません。

だから、こちらのブログで、あえてその前提を言葉にしていきます。

 

※注意

「女性が結婚していなければ、当然男性も結婚していない」は正しくありません。国立社会保障・人口問題研究所によると、生涯未婚率(50才までに一度も結婚していない率)は、男性で23%、女性で14%と差があります。なぜこんな差が出るかというと、女性が勝ち組の離婚経験男性と結婚することはあっても、負け組の未婚男性とは結婚しないからです。こんなところにも、女性は「結婚しない」と選択権があるのに対して、男性は「結婚できない」と選択権がないことが現れています。

介護職の多くを公務員化すべきである

公務員改革でぜひ提案したいのは、介護職の大規模な公務員化です。

あまり知られていないと思うのですが、大きな政府スウェーデンでは職業女性の半数以上が公的部門で雇用されています(「仕事と家族」筒井淳也著、中公新書)。また、その公的部門で雇用されている女性の7割が介護職で、2割が保育職です。スウェーデンは女性が社会進出していると言っても、アメリカのように管理職の女性が10%以上もいるわけではなく、スウェーデン女性で管理職は民間で5.68%(日本0.50%)、公的部門で2.84%(日本1.01%)です。介護職や保育職の多くを公務員化させれば、日本でも女性の社会進出は容易に進むはずです。そんなことで女性が社会進出できたと判断するのは間違っている、と批判する人はいるでしょうが、だとしたら、世界経済フォーラムが発表する「男女平等度ランキング」(スウェーデンは2017年5位)も気にすることはないと思います。

話を戻します。日本では求人が多いのに給与が低いため、介護職と保育職に人がろくに集まらない状況が続いています。これに対処するために、公的部門で十分な給与を出して、多くの職員を雇うべきだと考えます。

現在、公務員では事務系の仕事が無駄に多すぎます。コンピュータ時代の今、事務職は究極的にゼロにするべきです。公務員と言われると事務職を想像するような今は異常であると認識し、公務員といえば人を相手にする福祉職を想像するような社会になるべきです。

公務員を中高年限定採用にする改革

新卒一括採用と年功序列が一般化した日本では、中高年がなんらかの理由で退職した場合、再就職先を探すことが極端に難しくなっています。これの救済策として公務員を若者一括採用から40才以上の中高年者採用に変更することを提案します。

事務職や教員などは中高年で問題ないはずです。警察官はさすがに中高年だけでは問題があるかもしれないので、ある程度は若者にも門戸を開くべきかもしれません。他にも中高年だけにすると問題のある職種や地位もあるでしょうから、例外は設けるべきでしょうが、ほとんどの公務員は中高年採用にしていいと思います。

なお、この改革案が実行されるかはともかく、次の公務員大改革期には、官僚の関係業界の天下り、特に警察官のパチンコ業界の天下りなどの腐敗は法律で厳格に禁止して、排除するべきです。

また、公務員改革に少子化対策を組み込んでみてはどうでしょうか。たとえば、公務員の採用を二人以上の子育てをしている、またはしていた人に限定します。

現在、国民の三大義務に教育、納税、勤労がありますが、それに「子育て」を加えていいと思います。昔は義務化しなくても自然と人間は結婚して、子どもを産むものだと考えていたのでしょうが、現在の流れに任せると少子化は止まりそうもありません。確実に激しい反対が出てくるでしょうが、子どもがいなければ、社会は成り立ちませんし、生物種として滅んでいくのは自然の摂理です。少子化を食い止めるため、「子育て」の義務を果たしている者だけに公的職業の特権を与えてもいいと思います。

公的な人的支援が私的なコミュニティの救済に勝る理由

私の提案している新福祉国家では、公的な人的支援を受ける義務が生じます。最低でも公的な報告の義務は出てきます。この公的な干渉を強く忌避する人は確実にいるでしょう。しかし、私的なコミュニティによる救済が不十分になった今、そしてこれからの時代、このような公的な干渉が必要なはずです。

一人の取りこぼしもない社会」で書いたように、ひと昔前は、コミュニティによって私的な問題が解決されていました。その大きな利点は、やはり公費がかからないことでしょう。一方、その大きな欠点は、社会的な正当性が保証されないことです。だから、私的な問題を解決したが、より大きな社会的な問題が生じていることも少なくありません。

たとえば、私も少し関わったことのある貧困ビジネスがあります。街中の浮浪者に「宿を保証してやる」と声をかけて、安アパートに住ませ、生活保護の手続きをとってあげた後、元浮浪者の生活保護費をピンハネするビジネスです。ほぼ100%でヤクザが関わっており、違法のはずなのですが、浮浪者が集まるような大きな都市なら確実にあります。言うまでもなく、本来その生活保護費は、浮浪者の社会復帰のため、あるいは浮浪者の健康で文化的な生活のために使われるべきなのですが、公的な人的支援があまり入らないため、実態が解明されないまま、ヤクザの活動費用に回っています。これで浮浪者の衣食住などの私的な問題は即座に解決されるのかもしれませんが、公金が反社会勢力に流用されており、より大きな問題が生じています。この他、家出少女を風俗で働かせるなど、ヤクザが関わって私的な問題を解決すると、ろくなことになりません。

ヤクザが関わった例に限らず、私的なコミュニティが私的な問題を解決する場合、それが社会的妥当性を持つ保証はどこにもありません。たとえば、太った不登校児がいたとして、近所の頑固オヤジが「デブなんて生きる価値なんてないんだよ! 毎日、俺と一緒にランニングしろ!」と問題発言をしたとします。よりにもよって、そのランニング実践によって、その子は不登校をやめて、勉強に励むようになり、東大に合格して、挙句には政治家にまでなってしまった例があったら、どうでしょうか。当然、その元不登校児は「デブは生きる価値がない」だとか、パワハラ教育が正義だとかの価値観を持ってしまい、他人にまでその人道に反する価値観を強要するかもしれません(そんな国際的に通用しない価値観の政治家が日本に少なくない上に、そんな政治家を信奉する国民が多いことは本当に情けなく、恥ずかしいことです。極論すれば、こんな価値観が広まっていることこそ、現在の日本の政治・経済・文化が他の先進国に遅れている最大の原因だと私は思います)。

しかし、公的な人的支援では、十分な教育を受けた支援者が関わるので、そんなことは通常起こりません。万一起こった場合でも、被支援者が「『デブに生きる価値はない』と支援者に言われた」と報告すれば、その支援者は問題のある指導をしたことで処罰を受けます。

ここで、上のような気合重視の精神を美徳と思ったり、世の中にキレイ事では処理できない問題があると思ったりする人は、率直にいって、50年以上は時代遅れです。私に言わせれば、あなたの価値観にピッタリ合う国家、北朝鮮にでも行ってほしいです。社会復帰に気合、というか意思の強さが重要になるのは事実でしょうし、世の中にキレイ事で処理できない問題があるのも事実ですが、だからといって、直近の問題を解決するためなら、なにをしてもいいわけがありません。一部の人には非常に有益だとしても、大多数の人を精神崩壊させ、場合によっては自殺に追いやる指導は道徳的に認められません。不登校の問題は解決できても、基本的人権を無視した指導、場合によっては基本的人権を無視した人物を生みだす指導は社会的に許されるべきではありません。なにより、そういった検証を可能にするように、公的に人的支援をして、それを記録に残すべきです。

私的な救済と違って、公的な支援では、後から社会的な公平さについて検証が可能です。これも公的支援の大きなメリットでしょう。

新福祉国家での雇用政策

私の提案する「一人の取りこぼしもない社会」の新しい日本でAさんがB会社を自主都合退職したと仮定します。

B会社はAさんの退職の意思表示を受け取った時点で、それが口頭であれ文書であれLINEメッセージであれ、失業対策局(仮称)に直ちに連絡する義務が生じます。その当日中に失業対策局からAさんとB会社に、それぞれメールなどで公式な連絡がきて、退職に至った理由を聞きます。

ここで不審な点があれば、失業対策局の職員がB会社の職場まで行って調査します。Aさんの退職が本当に自主都合と判定されるべきなのか、事実上の人員整理になっていないかなどが調べられます。また、パワハラ、セクハラ、マタハラなど違法行為の可能性があれば、職員が専門機関に直ちに通告します。違法とは言えないが職場環境に問題があるなら、B会社は適切な指導を受け、場合によっては指導が実践されているかの定期的な調査も受けます。

これだけなら、労働者保護の印象を受けるかもしれませんが、失業対策局はAさんにも問題がなかったか調べます。たとえば、Aさんに無断欠勤や遅刻が多かったのであれば、それが一生記録に残り、次にAさんが退職した時にも、前職で無断欠勤や遅刻があったことは事前情報として失業救済局の職員に調べられます。

Aさんが退職後、すぐに就職したのなら問題ありませんが、1ヶ月後にも次の仕事を見つけていない場合、失業救済局の職員からメールなどで連絡がきて、Aさんはそれに適切に答える義務が生じます。もし返信がこなかったり、返信がきてもAさんが困っている状況にあると分かったりすると、Aさんの個人宅に職員が伺います。Aさんが怠けて仕事を探していないのなら、職業斡旋所に紹介されます。なお、Aさんが職業斡旋所で紹介された仕事に正当な理由なく就かなかった場合、失業保険や生活保護などは減額されます。また、Aさんがうつ病になっているなら、精神科に紹介されるかもしれませんし、Aさんの仕事能力が劣っているなら、職業訓練校に紹介されたりするかもしれません。これらも拒否すれば、失業保険などが減額されます。もちろん、退職後にAさんが1年間自分探しのために世界旅行することも可能ですが、Aさんは1ヶ月に1度、それが順調に進んでいることを失業救済局の職員に連絡する義務があります。

私の提案する新しい福祉国家では、どんな企業のどんな職種でもパワハラなどが完全に許されない一方で、心身ともに健康な現役世代の人が正当な理由なく無職でいることも許されません。これにはメリットもデメリットもあるのは言うまでもありません。

次の記事に、私的なコミュニティが私的な問題を解決していた過去の時代(あるいは現在)と比較して、公的な人的支援で私的な問題を解決するメリットを書きます。

タックスヘイブンの不正をもっと報道すべきである

本日からパラダイス文書が日本のニュースで報道されています。「ポピュリスト支持者の本当の敵であるグローバリズムの弊害の解決方法」の記事でも同様のことを述べましたが、現代世界で最悪の不正はタックスヘイブンです。戦後から現在までの日本政治家腐敗事件を全て足し合わせても、タックスヘイブンで行われている1年間の不正の足元にも及びません。タックスヘイブンを見逃していることは、戦争と並んで、現代のバカの極みです。

「不平等をめぐる戦争」(上村雅彦著、集英社新書)では、こう書かれています。

タックスヘイブンで秘匿されている個人資産は2310兆円から3520兆円といわれ、これに課税すれば年間21兆円から31兆円の税収が見込める」

パナマ文書が報道された2016年、日本でそれ以上に盛んに報道されていたのは舛添都知事の不正疑惑でした。舛添都知事の私的流用額は推定1400万円です。

これらの金額を比べたら、どちらを大きく報道すべきかは明らかでしょう。もちろん、金額だけで不正の重要度が決まるとはいいませんが、いくらなんでも桁が違いすぎます。

こんなたとえ話はどうでしょうか。100万円の新車を購入したものの、全く違う10万円くらいの中古車が届いたのに、ディーラーに電話して「購入した車と違うと思います」とクレームを言ったものの、「いえ、それで合っていますよ」と返答されると、それっきりにしました。一方、その人は近所のコンビニで買った10円の「うまい棒」が帰って袋を開けたら「チロルチョコ」になっていたと、3ヶ月間毎日、コンビニにクレームの電話を入れていました。

いくら自動車よりも「うまい棒」が大事だとしても、上のような行動をしていたら、普通、その人は精神異常を疑われます。

上で書いた21兆円から31兆円の全てが日本の税収になっていたわけではありませんが、世界における日本のGDP比6.4%(2017年IMF)から推定すれば、脱税額は毎年1兆円~2兆円程度あることになります。「いや、日本は貧富の差が激しくないし、源泉徴収が多いから、せいぜいその1割だ」としても、1000億円から2000億円です。舛添スキャンダルの1万倍の金額です。金額比がそのままニュース報道の長さの比重になるのなら、タックスヘイブンは舛添スキャンダルの1万倍から10万倍報道することになります。タックスヘイブンの不正はそれくらい桁違いなのです。

こんな事実は私が知っているくらいですから、日本のジャーナリストだって当然知っているはずです。パラダイス文書の衝撃的ニュースも一過性で終わらせることなく、徹底して追及して、タックスヘイブンの腐敗がいかに深刻かを全世界の人に知らしめてほしいです。

なお、このブログで何度も主張している通り、タックスヘイブンを潰すためには、金銭取引の完全公開が最も確実な方法だと私は考えています。それについては、他の記事を読んでもらえると幸いです。

高齢者以上に現役の社会的弱者にも個別事情に応じた人的援助を与えるべきである

前回の記事の続きです。

高齢者天国ニッポンでは、極めて手厚い高齢者介護が行われています。それがよく分かる表を次に示します(日経新聞のHPから引用)。

f:id:future-reading:20171104112814j:plain

要介護1で月約15万円、要介護5になると月約35万円もの金額がたった1割の自己負担で利用できます。それ以外の9割は、税金や40才以上の保険料などの社会的負担で賄っています。

これだけの金額を費やしているので、高齢者の個別事情にも細かく対応できています。たとえば、介護保険を利用する場合、必ずケアマネージャーという「監督者」がついて、どのような介護サービスを受けさせるのが適切か、本人に代わって考えてくれます。

それは必ずしも介護対象者の利益だけを追及するわけでもありません。たとえば、掃除する身体能力はないが、部屋がどれだけ散らかっていても自分は気にならないので、掃除のヘルパーは要らない、と介護対象者が主張したとします。この場合、ケアマネージャーは本人の生活の質の向上のために部屋の掃除はするべきと判断しても、「本人の意思」を最優先させ、掃除ヘルパーは介護サービスに含めません。とはいえ、例外もあります。掃除ヘルパーの支援がないせいで、ゴミの腐臭が近所にも漂って迷惑をかけていたら、それはヘルパー支援を受ける義務が生じても仕方ないからです。それを円満に解決するため、「本人のゴミ出し身体能力」「高齢者家族の協力」「近隣の環境」「日本社会の常識」などの個別事情を細かく把握して対応するのがケアマネージャーの仕事になります。なお、ケアマネージャーの仕事はヘルパーの派遣だけでなく、訪問リハビリ、訪問看護デイケアショートステイ、特養などの全ての当該地域の介護サービスを把握して、介護保険の金額内でどうすれば高齢者にとって最適な介護サービスを提供するかを考えます。

ここまで豊富で手厚い介護サービスが存在しているので、介護保険費用は現在年間10兆円にも達しています。これは現在40兆円の公的医療費用(その6割は65才以上に費やされている)とは別枠の金額です。周知の通り、介護費用も医療費用も高齢者の増加にともなって、これからも上昇していくことが確実視されています。

これだけ高齢者の社会保障が手厚い一方で、現役世代の社会保障はあまりに貧相です。日本の生活保護支給費は約3.7兆円(2015年度厚労省発表)で、刑務所の予算は約2300億円(2015年度法務省発表)で、不登校者などを救うスクールカウンセラーの予算は約41億円(2014年度文科省発表)です。

さらに、上の費用は私が「一人の取りこぼしもない社会」で新しく提案している失業者、犯罪者などの社会的弱者への人的援助の予算にすらなっていません。

生活保護者の費用は本人に給付しているだけで、後は自己責任です。一応、生活保護担当者(保護係などと呼ばれる)は受給者につきますが、ケアマネージャーが高齢者介護費用の使い道を全て把握しているように、保護係が生活保護費の使い道を全て把握しているわけではありません。だから、生活保護受給者がパチンコをしていたら、密告すべきなどの条例ができたりします。確かに、介護サービスと違って、生活保護費は文字通り、生活に関する全ての事柄に費やされます。いくら生活保護受給者といっても、金銭の使い道を全て指定されるのは、生活保護受給者への人権侵害だとの批判はあるでしょう。

だから、使い道の全ては指定しなくても、たとえば生活保護費15万円のうち12万円は保護係が使い道を指定する、ギャンブルに費やす金額を制限する、などの規制はあってしかるべきでしょう。なにより、本人受給額を減らしてでも、本人への人的援助の予算を加えるべきだと思います。人的援助の役割は単に保護費の使い道を把握して規制するだけでなく、本人が退職した事情を親身に聞いたり、就職口を本人の代わりに探したり、職業能力をつけるための学校を紹介したり、本人の理想が高すぎたら現実を理解させたりするなど、多岐に渡ります。もちろん、そんな手厚い人的援助をしたら、生活保護予算は増えるでしょうが、社会全体への貢献で考えれば、それだけの予算をかける価値はあるはずですし、そうなるように運用できるはずです。

上記の刑務所の予算は、刑務所内で犯罪者が更生するための費用です。私の提案する新しい犯罪者への人的援助の予算は、刑務所から出た後の犯罪者が社会復帰するための人的援助の費用、あるいは刑務所に入らない程度の軽犯罪者が再犯しないための人的援助の費用です。軽犯罪といっても、駐車違反程度で人的援助が入っていたら無駄な予算になるでしょうが、窃盗くらいになると人的援助は入った方がいいと私は思います。

上記のスクールカウンセラーの予算は明らかに不足しています。スクールカウンセラーの担当業務は不登校、いじめ、非行、家庭問題なども含まれます。不登校者だけを処理する予算でも現状では足りないでしょう。

話を介護保険に戻します。要介護5といえば、まともに意思疎通ができず、自分で歩くことは当然できず、トイレまで行けないのでオムツ使用で、口からの食事も難しい方です。そんな方の介護には月35万円もの金額が必要だと、日本が事実上の公的判断を出していることは、国内的にも国際的にも広報すべきではないでしょうか。

その事実をどう考えるかは人によって違うでしょう。「そんな高額費用がかかるくらい、人間の最期の介護は大変だ」、「そんな負担の多い介護を家族だけに任せるわけにはいかない」、「さすが高齢化先進国ニッポン! 最期の最期まで介護を提供している!」と考える人もいるかもしれません。しかし、日本社会全体で考えていれば、「自力で意思疎通も移動もトイレも食事できない人の介護に月35万円もかける金があれば、他に回すべきだ」という結論になったと私は推定します。特に、日本以外の国だったら、高齢者も含めて、ほぼ全員がそんな結論に到達すると確信します。終末期医療については、また別の記事で論じるつもりですが、社会負担を考慮するまでもなく、本人のためにすらならない過剰医療まで日本では行われていたりします。

現状の日本で介護の個別事情が世界一きめ細かく考慮されていると同じくらい、不登校者、失業者、犯罪者などの社会的弱者の個別事情を考慮して、人的援助を与えるべきだと考えます。ここでは簡単に書いていますが、それがいかに大変かは私も少しは理解しているつもりです。刑務所に入るほどの犯罪者の社会復帰なんて、それこそ月35万円程度の人的援助が1年以上必要かもしれません。どこまでどのように援助すべきかについて詳しくここでは論じませんが、身体能力の落ちた高齢者にも同じ費用をかけているのですから、犯罪者の更生にもそれくらいお金をかけるべきだ、と考える日本人が増えてくれることを願っています。

一人の取りこぼしもない社会

高度経済成長期の日本にはコミュニティが溢れていました。地域ごとのコミュニティ、学校ごとのコミュニティ、会社ごとのコミュニティ、趣味のコミュニティ、親同士のコミュニティがほぼ必ず存在して、自動的に助け合いが行われていました。自治会、PTAなどの規約の定められたコミュニティもあれば、単なる近所づきあいのコミュニティもありました。大抵、一人で複数のコミュニティに属しており、赤ちゃんから高齢者まで、コミュニティに属していない人間など一人もいませんでした。例として、会社ごとのコミュニティを考えても、今と比較にならないほど結びつきが強く、社内旅行や社内運動会などが自主的に開かれて、参加者の多くは義務感でなく、本当に楽しんでいました。

上のような時代を古き良き社会と考える人は、今の日本でどれくらいの割合でいるのでしょうか。超高齢社会の日本では多数派なのかもしれません。その人たちには申し訳ありませんが、上のような「困っている人がいればみんなで助け合っていた」、「悪いことをしていれば、他人の子どもでもちゃんと叱ってあげた」という社会は、これからの日本で実現することも、理想になることもまずありません。私的な問題が私的なコミュニティで解決される社会に日本が戻ることはありえませんし、戻るべきとも私は考えません。

かといって、今後日本がアメリカのように、自己責任の社会になるべきだとも思いません。アメリカ以外の西洋の国々のように、日本は福祉国家を目指すべきだと私は考えます。これから提案するのは、西洋のどの福祉国家よりもさらに福祉を重視した「一人の取りこぼしもない社会」です。

それは、不登校者や失業者や犯罪者などの社会的弱者を金銭的援助ではなく、人的援助によって救済する社会です。この人的援助はボランティアでなく、仕事です。その仕事の報酬は政府から支給されます。社会的弱者の社会復帰を助けた場合に、そこでかかった費用を元社会的弱者に求めるのは現実的でも理想的でもないので、人的援助者の給与は税金によって賄われます。

上記のような社会的弱者の救済制度は現在の日本にもあります。ただし、そのほとんどは人的援助が不十分すぎて、「一人の取りこぼしもない」社会とはとても言えません。それが最もよく表れていると私が思うのは、日本の生活保護の捕捉率(生活保護受給資格者のうち、本当に受給している者の率)の低さです。この捕捉率は2010年の厚労省の調査で15~30%しかないと推定されており、他の研究でも2割程度になっています(https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20170630-OYTET50005/2/)。日本の生活保護捕捉率は先進国で最も低く、なぜ低いかと言うと、「親戚が面倒見るべきだから」、「車持っているほど金持ちだから」、「貯金があるから」などの理由をつけて、生活保護担当職員が支給を拒否しているからです。「親戚とは絶交している。アイツらに頼むくらいなら死んだ方がマシだ」、「今の住所だと車は生活必需品なんだ」、「貯金もあるが借金はそれ以上にある」などの事情を細かく聞いてくれたりはしません。そんな個人的な事情につきあっているほどの人手がないためです。だから、そのための人手を税金で十分に確保し、個人の細かい事情に対応します。必要な生活保護費は与えて、不要な生活保護費は支給しません。また、生活保護費を与えても与えなくても、人的援助は適切な時期まで続けます。

もちろん、こんな制度には欠点もあります。登校拒否したり、失業したりしたら、完全に一人になりたい時でも、自暴自棄になりたい時でも、自殺をしたい時でも、人的援助の公的干渉が自動的に入ってきます。被援助者がいくら自己責任で済ますと主張しても、自己責任で済ましたい合理的な事情を説明する義務は生じます。

古い世代の人は(あるいは現世代の人は)、これを統制社会と捉えて、激しく非難したりするでしょう。しかし、「完全に一人になりたい」、「自暴自棄になりたい」、「自殺をしたい」時は、普通に考えて、その人になんらかの問題があります。そのための公的な人的援助を拒否するなら、もっと問題があります。放っておいたら、本人が取り返しのつかない問題を引き起こすかもしれません。だから、被援助者が余計なお世話だと感じたとしても、被援助者がそれを拒否する事情を説明できなかったり、説明しても合理的な事情でなかったりしたら、被援助者に公的な人的援助を与えた方が社会全体の利益につながる、と私は考えます。また、全ての人の公的人的援助が社会全体の利益なるよう調整することは可能で、調整すべきです。

この記事で提案した制度の導入で、自己責任は軽減され、個別の事情は考慮され、大多数の社会的弱者は救済されるでしょう。一方、完全に自己責任で済ます自由は制限されることにもなります。

漠然とした話になっているので、次の記事に既に存在する介護保険の具体例をあげて示します。