未来社会の道しるべ

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なんの罪もない被害者などこの世に存在しない

犯罪被害者家族と犯罪加害者家族が守られる制度が社会に必要でしょう。現在、世界的に見ても両者の救済制度はそれほど整っているわけではありませんが、「なぜ光市母子殺害事件裁判は死刑となったのか」にも書いたように、日本では2004年に犯罪被害者等基本法が成立しています。NPOによる被害者家族保護だけでなく、法律で被害者家族を公的保護している国はまだ珍しいようです。加害者家族の保護法は日本でも成立していませんが、加害者家族を保護するWorld Open HeartというNPO団体は2008年に仙台に生まれています。

最近、「『少年A』被害者遺族の慟哭」(藤井誠二著、小学館新書)と「加害者家族」(鈴木伸元著、幻冬舎新書)を読みました。この2つの本については個別にいろいろな点を指摘したいのですが、最も批判したい点を次に書きます。

どちらにも「なんの罪もない被害者」という表現が普通にあることです。

なんの罪もない人など、この世に存在しません。少なくとも、そういう考え方があります。

叩いてホコリの出ない人などいない」でも書いたことですが、日本の法律を(おそらく世界のどの国でも自国の法律を)全て覚えて遵守することは不可能なので、日本人なら誰でも微罪をふっかけて、逮捕することが可能です。

法律は無視するとしても、道徳的にも、嘘をついたことのない人はいませんし、人を傷つけたことのない人もいませんし、悪い考えをしなかった人もいません。そもそも、人のほぼ全ての行為は、見解によって、善にも悪にもなりえます。

日本人に最も欠けている見解と私が考えるのは、ただ単に幸せで生きているだけの罪です。これは「マザー・テレサの日本人へのメッセージ」でも書いたことです。世界中に多くの不幸な人がいると知っていながら、自分と比べものにならないほど不幸な人が目の前にいながら、金銭的にも時間的にも労力的にも不幸な人を何名か救えるにもかかわらず、無視して、自分の幸せだけのために生きているのは、どう考えても罪だと私は考えます。

この見解がないまま、被害者家族や加害者家族の救済を訴えられても、根本的な道徳観に欠陥がある意見しか出ないのではないか、と私はどうしても考えてしまいました。