未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

なぜ外見から内面まで判断してしまうのか

言葉は性格である」に書いたように、私は「性格(話し方や所作)」と「内面(自然観や社会観や人間観)」を明確に区別しています。「メラビアンの法則」にあるように、人間は外見や性格に騙されやすいのですが、とりわけ日本人はその傾向が強いです。「連続殺人犯」(小野一光著、文春文庫)を読んで、その失望をまた感じさせられました。

大牟田連続4人殺人事件の犯人のヤクザ一家には、二男の北村孝紘という死刑囚がいます。子どもの頃から不良で暴走族にも入った後、父の暴力団の一員になった筋金入りのワルです。「殺人がいけない理由を答えられない日本人」の金川真大のように、犯罪後も「蚊も人も同じだ。だから、殺した」などと述べており、孝紘を死刑にするかはともかく、孝紘は二度と社会に出てくるべきでない奴だと私は確信します。

著者からすると孝紘は人懐っこい性格らしく、別れの時、直立不動で深々と頭を下げると、著者は切なさを感じたと書いています。犯罪現場の大牟田市街を見渡せる公園の高台にやってきて、「かつてはこの景色のなかに、被害者も加害者もいた。だが、前者は無念の死を与儀なくされ、後者はその咎により死を待つ身となった。つまり、幸せになった者はだれもいない」と書いています。

この文を読んだ時、正直、私は憤りを感じました。著者は被害者の遺族とも会っています。この事件でたまたま居合わせただけで殺された、最も理不尽な原因で殺された原純一の母です。事件から10年たった後も、「つい最近悲劇に遭遇したばかりのような憔悴した顔で語る」母に取材したのに、まるで被害者と加害者が対等であるような書き方です。

確かに、加害者が被害者の側面もあることはしばしばあります。むしろ、加害者の方が被害者以上の被害を受けており、可哀そうだ、とすら思う事件もあります。しかし、この事件に関しては、加害者側に一片の同情の余地もありません。被害者一家の3人も普段からヤクザの北村一家と付き合っている時点で、社会道徳的に好ましくないことは推測され、そんなヤクザの友だち一家の友だちである原純一も、半グレだったことは想像されます。だから、被害者側にも批判されるべきところもあるのかもしれませんが、だからといって、加害者側の極悪さが変わるわけではありません。殺した方と殺された方は、天と地の差があります。同列にする時点で、死者を冒涜しています。

本当に残念なことに、孝紘の極悪さを度外視して、人懐っこさに魅了された奴は著者以外にもいます。孝紘の国選弁護人の松井仁です。本来の国選弁護人の仕事の枠を越えて、孝紘の雑誌記事のコピー差し入れ要求だとか、出版社紹介要求だとかに、松井はわざわざ対応しているのです。しかも、孝紘が書いた80枚の刺青下絵画集「証」を制作し、その刺青下絵のTシャツまで松井は作ってあげています。松井はイギリスの大学留学があり、国際取引や外国人事件の弁護を中心に取り組んできたほどの国際人でありながら、孝紘以上に救うべき人が日本に腐るほどいることに気づけなかったようです。こんな愛嬌のいいだけの凶悪犯罪者には画集やTシャツを作ってあげるよりも、自分の罪に向き合うよう説教すべきです。孝紘にここまでしてあげる不正義に憤って、松井を殴った人が傷害罪で実刑になるのなら、それはこの国の刑法のどこかが間違っている証拠になるのではないでしょうか。

「外見がいくらよかったとしても、内面まで正当化されるわけではない」こと、少なくとも「立ち居振る舞いや話し方(外見)がいくら素晴らしくても、道徳観(内面)がおかしい奴はいる」こと、最低でも「外見と内面を分けて考える」ことくらいは、いいかげん日本人もできるようになるべきです。

なお、これができない日本人の代表格の一人に重松清がいます。上記の本の後書きで、重松は「かつてはこの景色のなかに、被害者も加害者もいた。だが、前者は無念の死を与儀なくされ、後者はその咎により死を待つ身となった。つまり、幸せになった者はだれもいない」の文に美しさを感じるそうです。私が憤りを感じる文に、重松はせつなさを感じてしまう道徳観の欠落した奴です。こんな道徳観の作家の小説が日本で600冊以上も出版されていることが情けないです。

同じ主張の記事を次に書きます。