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朝日新聞記者は相模原障害者施設殺傷事件の被害者たちを冒涜している

マスコミについて詳しい人なら知っているでしょうが、記者クラブに所属する日本の大手マスコミ会社では、新人に警察担当をさせます。つまり日本の犯罪についての情報は、まだ若い新人記者の報道によって、日本人全体に伝わります。

新人だから、若いから、その人間観や社会観が拙い、と私は考えていません。実際、カナダにいた頃には、深くて広い人間観や社会観に私が感銘を受けた若い相手はいます。私自身、もう40才を越えましたが、30才で同じテーマを論じても、同じような記事しか書けなかったように思います。しかし、日本では若者が広くて深い人間観や社会観を訴えても、評価されるどころか「生意気」と批判されるせいなのか、若い人は狭くて浅い人間観や社会観しか持っていません。「殺人がいけない理由を答えられない日本人」と同じことを嘆きますが、これは大手マスコミに入社できるエリートでも変わらないようです。

「相模原障害者殺傷事件」(朝日新聞取材班著、朝日新聞出版)では、裁判中の植松聖との面会記録が載っています。「障害者が周りに迷惑をかけていると思うのか?」「トランプのニュースを見て事件を考えたのか?」「事件は大麻のせいだと思うのか?」など既に調書や裁判で植松の証言が出て、植松がなにを言うか分かりきっている質問で貴重な面会時間のほとんどを費やしています。こんな下らない質問しかしないのなら、犯人と面会する意義はありません。強いていえば、日本の一流新聞社の記者たちが戦後最悪の凶悪事件の犯人相手に、この程度の質問しかできない証拠がさらされた意義しかありません。「妄信」(朝日新聞取材班著、朝日文庫)で障害者差別についての取材をあれほどして、熟考したはずなのに、まるで「12才の少年のような」質問しかしていないことに、愕然としました。「相模原障害者殺傷事件」のまえがきには、審理は出来事の表層をなぞるようにして進んだ、と裁判を批判していますが、こんな浅はかな質問しかできなかった奴らにそんな批判をする資格は全くありません。

さらに驚くのは、植松より4才年下の記者が「周囲の同世代を見渡しても、これほど礼儀正しさを感じさせる相手はいない」と植松を賞賛して、「(植松から)『あなたも心の底ではそう思っているのでしょう』。自身に潜む差別と向き合わされているような気がした」と植松の思考に共感を示している点です。「あとがき」を執筆した太田泉水にいたっては、「植松死刑囚の言葉を一部でも肯定するような記者の言葉に、私は驚き、反論しかけた日もあった。だがやがて、そのとおりだと思うようになった」と総括しているのです。この太田は底知れぬオオタワケだったようで、「太田さんの耳は、高須院長と似ていますね。良い耳をしています」と植松に言われると、「私の耳が!? 初めて言われました」と返しています。

1冊目で植松の思想を「妄信」と罵倒したくせに、2冊目では植松の思想に近づいている奴らの記述がそこかしこに出てくるのです。常識を疑ったことのない典型的な日本型エリートたちは、「障害者を大切にしなければいけない」という常識を疑った植松以上に浅い思考しか持っていなかったようです。上記の本で植松の思考は浅いと批判していますが、一体どの口が言っているのでしょうか。

本には、まだ信じられない記述があります。2019年12月24日、クリスマスイブに面会した記者は「ゆで卵と食パンを差し入れてもらえませんか?」と植松に言われると、記者は自費で買って差し入れたそうです。

言うまでもありませんが、その記者は植松が日本の戦後史上最悪の19人もの障害者を殺害した張本人であることを知っています。明治以降で、これ以上の大量殺人としては、1938年の津山30人殺しか、100人以上の幼児が亡くなった1948年の寿産院事件くらいでしょう。津山30人殺しは、同郷の人たちへの恨みからであり、その行動はともかく、その恨みに共感できなくはありません。寿産院事件は、自己主張できない幼児を大量殺人しており、その動機に共感は全くできませんが、逮捕後に涙を流して「悪いことだとは分かっていた」と反省しているので、犯人は倫理観の崩壊した悪人ではなかったようです。しかし、植松は「障害者は殺した方が社会のためだ」との「妄信」から犯罪を実行しており、しかも犯行後の裁判でも「障害者はいらない」と反省の色を全く見せていません。共感の余地がない極悪人です。

私と違って、この朝日新聞記者たちが恐ろしく恵まれた人生を送ってきたことは間違いありません。自殺を毎日毎時間毎秒考えてしまったことも、その原因を引き起こした人物たちを殺したいほど恨んだこともないのでしょう。しかし、そういった辛すぎる過去を背負いながらも、自殺せず、悪行に走ることもなく、高い倫理観を持ちながら生きている人の気持ちを尊重することはできないのでしょうか。そんな不幸な人よりも、大して不幸でないくせに間違った倫理観を持って、外見だけは礼儀正しい殺人者を尊重するのがこの国なのでしょうか。

私をいじめてきた奴について、私が許すことは一生ありえません。私がそいつから受けた苦しみと、同じ程度は苦しみ抜いて死んでほしいです。私がそいつを許せないだけでなく、そいつに共感する奴も、そいつに同情してお菓子をあげる奴も許せません。特に、そいつが私にした行為を知っているくせに、そいつにパンをあげる奴になれば、私は確実に恨みます。

植松は「障害者なんていらない」という「真実」を伝えるため、40人以上もの不幸な障害者の首を何度も何度も切りつけました。植松は「すぐに社会は変わらないだろうが、いずれ真実は社会に伝わるはずだ」と言って、死刑判決を受け入れました。その言葉通り、植松の「真実」が朝日新聞記者たちに伝わってしまいました。まさに植松の殺人行為の効果が発揮されてしまったのです。19人の死、27人の重軽症がムダになったのではなく、それらの犠牲が植松の思考に役立ってしまったのです。ジャーナリストとして、これほど罪深いことがあるでしょうか。

植松に切りつけられた19の故人、27の重軽症者は、自分たちが殺され、傷つけられた事件のおかげで、植松の思考が完全な間違いであることを思い知ったのではなく、その正反対で、植松の思考に一理あると思った新聞記者たちがいる、と知ったら、どんな気持ちでしょうか。朝日新聞記者たちは事件の被害者たちを冒涜しています。