未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

世界一自意識過剰な日本人は世界一美しくなったけれども

個人としての日本人ほど、他人からどう見られているか、どう思われているかを気にする意識=自意識(self-awarenessではなくself-consciousness)が過剰な人はいないでしょう。私は日本人にしては自意識が低い方だと思いますが、それでも海外にいる時と比べて日本にいると、どうしても恥や外聞を気にしてしまいます。

「オリーブの罠」(酒井順子著、講談社現代新書)という本があります。このブログで紹介したくないほど、倫理観や社会観や人生観に劣る著者によって書かれています。典型的なバブル世代の人で、その必要が全くないのに、50才近い自分の写真を本の扉に掲載しています(そういえば、海外の人は日本人ほど写真を自分の本や記事に載せません)。ただし、日本人の自意識を考察する上では有効のように感じました。

世界中どこでも、自意識が最も過剰なのは、中高生の女子でしょう。だから、世界一自意識過剰な日本人の中高生女子は、自意識過剰の極地まで到達した人たちになっているようです。「オリーブの罠」を読めば、そうとしか思えません。

当然ですが、美とは相対的なものであり、他者によって定義されるものです。「自分が美しい」という感覚は、人間一人で成立しません。人間一人であったら「澄み切った青空は美しい」といった美的な感覚が存在する程度でしょう。それは雨による災害のない、移動しやすい環境を意味する青空に生物進化の長い期間、安心を感じてきたことに原因を求められるのかもしれません。しかし、「オリーブの罠」に出てくる日本の中高生女子は、そんな生物普遍的な美を追及しているわけでは全くありません。「自分としての美しさ」を肯定していますが、あくまで自意識としての美しさなので、現実は「他者から美しいと思われて満足している自分」を追及しています。その時点で大きな矛盾があり、「自意識の美しさ」を求めるのは「他者に自分を美しいと思ってもらいたい欲求」が必ず背後にあるので、決して純粋なものではなく、称賛されるべきものでもないと思うのですが、それについては上記の本で一切触れられていません。著者は50才近くなるのに、それに気づいていないか、それを理解できないかのどちらかのようです。

私はもう若者と言えない年齢になっていますが、それでも「オリーブの罠」のバブル感覚には古臭さを感じてしまいます。とりわけ、「西洋人はカッコいい」という感覚の異常な強さには違和感があります。そういえば、私も子どもの頃にそんな感覚がありましたが、実際にカナダに1年以上住んでみて、そんな感覚はすっかりなくなりました。西洋人がみんなハリウッドスターのようにカッコよく、美しいはずがありません。カッコ悪い人もいますし、太った人もたくさんいます。

カナダにいた人で「カナダ人は日本人よりカッコいい」と言う人には一度も会ったことがないのに、「日本人はカナダ人よりカッコいい」と言う人には何度も会ったことがあります。というか、私自身も「カナダ人は、なんであんなにダサいんですか?」と言っていました。カナダ人にも「日本人はオシャレだ」とよく言われました。

ただし、このブログで何度も書いているように、カナダ人はそもそも外見を重視しません。だから、「日本人はオシャレだ」というのも、「日本人は服に金をかけすぎている」「日本人は厚化粧だ」などと悪い意味で指摘されることの方が多かったです。

私がこんな記事を急に書きたくなったのは、今朝の朝日新聞で次のような記事を見つけたからです。

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「自分らしく楽しもう」という趣旨で「地域別のスカート丈の長さ」の調査記事を書いた、と主張しています。もう矛盾だらけで、どこから指摘していいのか私には見当がつきません。ともかく、私が上記で指摘したような視点は、この30才にもなる一流新聞社記者にすら、皆無のようです。バブル世代に絶頂に達した日本人中高生の美意識は、現在も受け継がれているのかもしれません。

別の見方をすれば、自意識の美を極限まで追及してきたからこそ、日本人は世界で一番美しい人たちになったのかもしれません。しかし、美しさで西洋人に勝ったことで、日本人は満足しているのでしょうか。それで西洋人より幸せになったのでしょうか。全体として西洋人に勝った、と思っている日本人がどれくらいいるのでしょうか。

日本人が美しさの追及に費やした活力を、内面の研鑽に向けていれば、今の日本は全く違った社会になっていたことでしょう。嘆いても過去は変わらないので、もういいかげん十分すぎる美の追及はやめて(特に自意識の美の追及なんて完全にやめて)、内面を磨くようにしていくべきでしょう。

3時間待ちの3分診療は問題なのか

日本の医療不満では、待ち時間の長さが上位に来ることがあります。その一方で診察時間は極めて短いです。いわゆる「3時間待ちの3分診療」と呼ばれる問題です。他の先進国の医療事情をある程度知っている私からすると、これは贅沢な不満だと思います。

診察待ち時間を減らす最も簡単な方法は、当日飛び込みを不可にして、全て予約制にすることです。実際、緊急性の低い診療科(眼科や歯科など)では、一般に全て予約制です。しかし、通常の内科クリニックや病院では、当日の飛び込みでも受けつけて、電話での問い合わせすら必要ありません。緊急度が高いと判断されると、予約している患者さんよりも先に飛び込み患者さんが診察してもらえるのが普通です(そうするように現在の医学部では教育されています)。救急外来でもないのに、診察時間内なら電話なしの飛び込みでも受けつけてくれる内科クリニックが日本のように全国至るところにある欧米先進国は、私の知る限り、ありません。つまり、日本は待ち時間が長くてもその日のうちに診てくれる、医療アクセスの極めて恵まれた国なのです。他の国なら、体調不良があると思っても、救急外来でなければ、その日のうちにかかれるとは限りません。もちろん、大抵はそれで問題ないのですが、一部には手遅れになってしまう病気も必ずあるでしょう。日本はその一部を救えているわけです。

ところで、医者の誤診率はどれくらいか知っているでしょうか。東大の沖中重雄教授の1963年の退官演説で「私の誤診率は14.2%だった」と言って、世の中に衝撃を与えたことがあります。一般の人は「そんなに多いのか!」と驚きました。一方、それを聞いていた医者たちは「さすが教授、たった14.2%か」と感心したと言われています。それから50年以上たったので、誤診率はもっと下がっているのか、と私は思っていましたが、最近のアメリカでの大規模研究で医者の誤診率が10~20%という論文を見かけました。

そんな高確率で誤診しているのに、なぜ医療事故がもっと大きな問題になっていないかと言えば、「8割は病院にかからなくても治る、1割は病院にかかったから治る、1割は病院にかかっても治らない」(「医者は病気をどう推理するか」NHK総合診療医ドクターG制作班編、幻冬舎)からです。上記の誤診率と違って、この数値は統計的に求めていませんが、医者の中では昔から言われている格言です。つまり、病院にかかって誤診が起こっても、9割は実質的に問題ないのです。たとえば、誤診率20%の医者がいたとしても、本当に問題になるのは「病院にかかったから治る1割の病気」だけなので、わずか2%です。

さらに、日本では、その2%でさえ救えるシステムになっています。それが日本の極めて高い受診回数です。下のグラフは、1年間に国民1人が医者にかかる平均回数を国別に比較したものです。

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これも医者の間で昔から言われる有名な格言ですが、「後医は名医」という言葉があります。最初の医者が診察した時には症状があまり現れていないので見逃してしまいがちですが、後の医者が診察した時には症状がもっと明確に出ていて、前の医者の情報も活用できるので、より正確な判断ができる、という意味です。

上の診察頻度グラフを見ると、日本人は1月1回も医者にかかれるほど医療アクセスに恵まれています。スウェーデン人のように4か月に1回しか医者にかかれないのなら、「後医」に巡り合える確率も低いでしょうが、日本ならその4倍「後医」にかかれるわけで、その分、見逃しも少なくなります。

私は医療従事者ですが、現場を見ていて、重症の患者さんまで3分診療で終わらせることはほぼありません。見逃しがないように、必要な問診はします。ただし、薬をもらうだけの患者さんだったりしたら、3分もかけないのも事実です。だからといって、今の日本の診療時間を3倍に伸ばしたところで、見逃しが3分の1に減ることは絶対にないでしょう。それよりも、診察回数を増やして、患者さんが何度もかかりやすいシステムを作る方がよほど効果的だと確信します。

日本の医療制度に改革すべきところはありますが、「3分診療」(短時間での診療)まで失くすべきではない、と私は思っています。もし「3分診療」を止めたら、こんなに頻繁に病院やクリニックにかかることはできなくなり、恐らく当日の飛び込み診療も救急外来以外はなくなるはずです。短時間診療には、そのデメリットを上回るメリットがあると私は考えています。それを医療者側も広報すべきだと思ったので、この記事に書きました。

もし「3時間待ちの3分診療」を失くしたら、「3時間待っても当日に診てもらえた昔がよかった」という不満が必ず出てくる、と私は確信します。

 

※注意 日本より欧米で診察時間が長い一番の要因は、患者教育を重視しているからです。「患者さんに病状とその予防法について十分に時間をかけて説明していた」と、欧米の医療を見てきた日本の医師が異口同音に言います。「予防は治療に勝る」の記事で、医療機関外での日本の患者教育は遅れていると指摘しましたが、医療機関内でも日本の患者教育が遅れているのは事実のようです。特に、外来患者さんはともかく、入院した患者さんまで患者教育がろくに行われていない日本の医療は、患者さんの自己責任意識を低め、頻回受診を生み、医療費の無駄につながるので、明らかに問題だと思います。

日本の歴史はいつになったら神話ではなく事実に基づくのか

私は小学生の時、魏志倭人伝を習いました。最も古い書物による日本実在記録です。しばらくして、マンガの「中国の歴史」を読んでいるとき、ふと気づきました。

(魏は三国志曹操の国じゃないか。魏志倭人伝とは、中国の歴史書の一部だ。他国の歴史書が自国の存在を証明する最古の記録だとは、情けない。ひらがな、カタカナなどの独自文字ができる前だとしても、自ら正確な歴史くらい記録しておいてほしかった)

それから10年以上たって、幕末以降の近代史を調べている時、私は次のことを感じました。

(日本の歴史を知るために、アメリカの資料を調べなければならないことが、なぜこんなに多いのか。また、アメリカの方が日本より資料が詳しいため、重要な結論がアメリカ側の一次資料に基づいていることが非常に多い)

2013年、日本に特定秘密保護法が成立してしまいました。これは多くの知識人から強い批判を浴びていますが、「国家と秘密」(久保亨著、瀬畑源著、集英社新書)を読めば、もともと日本の公文書は秘密だらけだったことが分かります。

2001年に情報公開法、2011年に公文書管理法の二つができて、ようやく日本も近代国家並みの情報公開ができるようになった、はずでした。しかし、官僚や政治家たちが「議事録の内容を公表するなら、自由に発言できない」と思ったのか、それらの法律が適切に運用され出す前の2013年に特定秘密保護法を作って、以前の体制に戻してしまったのです。

別の観点でいえば、2001年まで日本は公文書をろくに公開していませんでしたし、2011年まではそもそもの公文書をあまり作っていませんでした。「国家と秘密」によると、国立公文書館の職員数は、アメリカ2720人、ドイツ790人、韓国340人、ベトナム270人、日本47人という有様です。私が上のような感想を持つのも至極当然だったのです。

日本の公文書管理法の第1条にはこんなことが書かれています。

「公文書は健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源である」

「公文書が適切に保存・利用されることで、現在および将来の国民に説明する債務が全うされる」

魏志倭人伝の時代、日本の統治者は卑弥呼であり、神権政治が行われていました。日本の歴史書である古事記や日本書記では、卑弥呼は神話の中に組み込まれており、何年前で日本のどこの話かも全くの謎です。現在の日本はもちろん神権政治ではなく民主政治のはずなのですが、民主化の成熟度のバロメーターともいえる公文書公開度は著しく低いままです。このままでは神話時代と同じく、自国の歴史を知るために、他国の公式文書を頼りにしなければいけないでしょう。

情けないです。

日本や日本人にプライドを持っている人たちなら、日本政府に公文書作成とその情報公開を徹底して要求していってほしいです。

予防は治療に勝る

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上記の表は「スウェーデンにおける医療福祉の舞台裏」(河本桂子著、新評論)からの抜粋で、著者が務めるスウェーデンのリハビリセンターでの活動件数です。日本人医療者にとって驚きなのは学校訪問と家庭訪問の数でしょう。10件の通院患者に対して、学校訪問と家庭訪問を合わせて2件もしている割合です。それくらい教育活動を重視しているのです。これほどの頻度で教育活動を行っている現役の作業療法士(リハビリ職の一つで、上記の著者の職業)なんて、日本に一人もいないでしょう。日本の医師や看護師も、外来患者や入院患者で手一杯で、病気でもない人のために教育活動をしている暇はありません。

しかし、「福祉先進国・北欧は幻想である」の記事に書いた通り、スウェーデンだって、医師や看護師が余っているわけではありません。むしろ、外来待機患者や入院待機患者が日本以上に多いのです。それでも、教育活動に時間を費やします。なぜでしょうか。

それは予防医療の効果を認識しているからでしょう。健康は一度マイナスになるとゼロに持っていくのは容易ではありません。だから、薬や手術などの手段を用います。しかし、薬や手術でゼロに戻ったとしても副作用は必ずあります。再度マイナスになりやすかったりしますし、必ずしも完全にゼロまで戻れるとも限りません。だからこそ、最初からマイナスにならないように、予防するべきです。ゼロからプラスに持っていき、マイナスに陥らないようにするべきなのです。

また、全ての病気、全ての体調不良、全ての死に医療・福祉が関わっていたら、いくら医師や作業療法士介護士がいても足りません。上記の本に「患者さんの理想は、常に専門職が一緒にいてリハビリすること」と書かれています。しかし、それは人手の面で不可能です。専門職が関わる時間はどうしても限られます。だから、リハビリの専門職は家族を中心とした治療訓練をします。作業療法士などが着いて行うリハビリよりも、生活環境の中で毎日自由に行うリハビリの方が、遥かに効果があると科学的に証明されてもいます。

にもかかわらず、上記のように患者さんと家族の理想は「誰かリハビリをしてくれる人がいてほしい」なので、なかなか納得してくれません。専門職が近くにいないと、どうしてもサボってしまいます。それを正し、自分で実践してもらうために、教育活動をしているわけです。別の見方をすれば、「できないこと」も予め伝えているのです。健康な時から、「専門職はいつも一緒にいることはできません」「どのようなリハビリを行えばいいかは教えます」「自分で自由な時間にリハビリした方が効果あります」といったことを認識してもらっているようです。

これは自己責任を高めるためにも有効でしょう。世界の中で、日本ほど恵まれた医療・福祉の国はありません。その恵まれすぎた制度のため、どうしても患者さんは医療・福祉に頼りすぎています。世界標準からいえば、患者さんの自己責任の意識が薄すぎます。その自己責任を高めるために、日本の医療者も医療活動の時間を削ってでも、教育活動をすればいい、と私は思います。

「糖尿病になったら、神経が鈍くなり、目が見えなくなり、腎臓が悪くなり、病気にかかりやすくなります。食事療法で予防できるので、糖尿病から透析になった人は全額自費治療にします(現在の日本では、透析は身体障害者手帳が発行されるため、全額公費!)」

「この近辺の病院ではAの病気が治療できません。Bの予防法は十分にしておいてほしいですが、それでもダメな場合があるので予め知っておいてください」

こういった広報教育活動を医療者自らが行うべきです。

このような案について「ネットを使えば医学の知識は着けられるし、地域の医療事情だって自分で調べられるので、情報収集しなかった者の自己責任だ」という反論が出そうですが、それで自己責任を押しつけるのは現実的でないでしょう。ネット上には真偽不明の情報が溢れていますし、地域の医療事情を自力で調べられるほど能力が高い人はごく僅かです。

一方、正しい科学的知識を持った医療従事者自らが地域で教育活動を行っていれば、「知らなかったから、私の責任ではない」は通らないはずです。

当たり前ですが、本来、病院と警察は商売繁盛すべき場所ではありません。だとしたら、医療者の最も重要な仕事は、病人を治すことではなく、病人を作らないようにすることです。そのためには、医療者は病院の外にも出て、教育活動を行うべきでしょう。

だから、ぜひ厚生労働省に、医療教育活動に保険点数をつけてほしいです。

福祉先進国・北欧は幻想である

スウェーデンなどの北欧国家は福祉先進国との固定観念が日本にあります。日本以外でこの固定観点が強いかどうかまで知りませんが、普通の日本人が北欧の医療・福祉を体験して、感激することはまずないと思います。私も北欧の医療や福祉を褒めている日本人に何度か会ったこともありますが、それは例外なく、日本の医療・福祉の現場をよく知らないのに、「北欧は福祉先進国」という固定観念だけで話している人でした。

例えば、次のような新聞記事があります。

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このように日本の献身的な介護現場を知っている人にとって、北欧の介護は「手抜き」「非効率」「いい加減」に感じるようです。病院の話になりますが、デンマークの看護師が仕事中にガムを噛んでいて呆れた、と言っていた日本人に私は会ったことがあります。

北欧に限らず、西洋の全ての国では、日本のように気軽に病院やクリニックにかかれません。医療に詳しい人なら知っているでしょうが、日本はフリーアクセスで、保険証さえあれば、日本中の全てのクリニックと全ての病院にかかれますが、海外ではまず「家庭医」という町医者にかからないといけません。その家庭医ですら電話予約が必要で、その日に診てくれるとは限りません。どうしてもその日に診てもらいたければ、救急外来にかかるしかありませんが、よほど重症でない限り、救外でも日本以上に待たされます。日本のように、蜂にさされたり、ゲロ吐いたりした程度で救外にかかったら、何時間も待たされるのは必至です。

そもそも、風邪をひいただけで、病院にかかれるのは世界中でも日本くらいでしょう(あとは、強制的な事情もあり、日本の制度を取り入れてきた韓国でしょうか)。「スウェーデンにおける医療福祉の舞台裏」(河本佳子著、新評論)によれば、スウェーデンの人は病院にかかる前に、医療相談所に電話するそうです。そこに出るのは、なんと看護師です。下痢しているだけだったり、1日なにも食べられなかったりしただけなら(私の経験でいえば、日本の救外の半数程度はこんな症状で、病気ではない)、ここで看護師が病院に行く必要はないと判断して、「2,3日ゆっくり休んでください。それでも治らなかったら、また電話してください」などと言うそうです。つまり、クリニックに行く前に、医師にかかる前に、看護師で対処されてしまうのです。上記の本では、熱が出て喉が痛くてたまらない日本人留学生が医療相談所に電話しても、看護師から診察の必要なしと判断されたので、再度電話して、大げさに症状を伝え、なんとか診療所の予約をとってくれた例が書かれています。しかし、診療所での医師は患者の喉を見ただけで、「少々荒れていますね。でも、風邪でしょうから紅茶にハチミツでも入れて飲んで、自宅で安静にしてください」と言って、なんの薬も出してくれなかったようです。日本なら、喉(口蓋扁桃)が腫れていたら、溶連菌などの検査はするはずですし、呼吸苦があれば急性喉頭蓋炎になっていないかX線を撮ったりするはずです。溶連菌と確定したら抗菌薬は処方するでしょうし、風邪だと確信しても痛み止めの薬くらい出すでしょう。日本の病院の手厚いサービスを知っている人にとっては、肩すかしもいいところです。ちゃんと検査をしてほしい、薬くらい出してほしい、と思う日本人は多い、と上記の本に書かれています。

ひどいサービスは外来診療だけではありません。入院だって、順番待ちが欧米では当たり前です。こちらの資料にもある通り、医療崩壊が起こったイギリスにいたっては1997年に入院待機患者が126万人もいました。ブレア政権が入院待機問題に10年間本気で取り組んで、2009年には63万人と半減したと自慢しましたが、外来にかかったその日に入院できる日本人からすると、入院待機患者が50万人以上いて自慢する感覚が信じられないのではないでしょうか。北欧もイギリスほどひどくないとはいえ、入院待機患者はいます。しかも、せっかく入院できたと思っても、すぐに退院させられます。こちらのデータにあるように、日本ほど長く入院できる国は他にありません。さらに言えば、手術についてもスウェーデンは1ヶ月待ちが当たり前で、社会問題化しています(「日本の医療 制度と政策」島崎謙治著、東京大学出版会)。私がカナダにいる時、ある医師が「カナダでは悪化したガンばかり見るので不思議だったが、その理由が分かった。ガンと診断されてから何ヶ月も待って手術していた」と言っていました。

北欧以外の欧米諸国についても考察しましたが、ともかく、高負担・高福祉と呼ばれる北欧と比べても、日本の医療・福祉はさらに高い水準で、低負担だと私は考えています。ここまで素晴らしい医療・福祉国家だからこそ、世界最高の超高齢社会を維持できているのでしょう。

だからといって、日本の医療・福祉に問題がない、と言うつもりはありません。まず、過剰な医療・福祉サービスは問題でしょう。上のスウェーデンの日本人留学生の症例でいえば、栄養とって家で安静にしていれば治る人にも、日本は十分すぎる診察をして、十分すぎる薬を処方します。もちろん、それによって本当に重症の患者を稀に救えているのでしょうが、大抵は過剰診療になって、医療費は高くなります。もっと問題なのは、そんな過剰診療をしているのに、自己負担が少なすぎることです。特に高齢者の過剰診療と自己負担の少なさは、高齢者の貯蓄額の高さを考えれば、日本経済全体をむしばむガンと言っていいでしょう。

これについては、これからの記事でさらに掘り下げます。

アメリカの医療は先進国最悪である

国全体での医療費高騰の一番の原因を次の中から選べ。

1、国民所得の上昇

2、医療技術の進歩

3、高齢

4、医療保険の普及

5、病気の蔓延

日本の医学部には準国家試験に等しいCBTという全国統一試験があります。現在それに合格しないと、5年生以降の病院実習ができません。そのCBTの試験に、上の問題が出題されて、答えは2の医療技術の進歩でした。その根拠となっているのは、これらの論文(http://content.healthaffairs.org/content/28/5/1276.abstracthttp://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMp1200478#t=article)らしいです。ただし、どちらもアメリカの研究です。私が使った問題集では、3の高齢化が△になっていました。ともかく、少なくともアメリカでは、医療技術の進歩が医療費の高騰に最も寄与しているようです。

そのアメリカの医療費は次のグラフにあるように2位を突き放しての世界最高です。

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これはアメリカ人が豊かだから、他のものにも金を使って、医療費にも使っているのではありません。GDP比でみても、アメリカは2位集団から頭抜けて世界最高です。

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では、これだけアメリカ人が医療に金を費やして、医療研究に金をつぎ込んで、病気を克服できているかというと、そんなことはありません。WHOの2015年発表で、平均寿命順位は日本が1位なのに対し、アメリカが31位です。

オバマケアで国民皆保険が名目上達成されましたが、医療費が全体として安くなってはいません。だから、これまで保険外だった人が保険内に入ったことで、もともと保険内にいた人がその割を食って、保険適用疾患が制限されたりしています。

どこの国でもそうですが、莫大な医療研究費は、最終的に患者が負担することになります。本気で医療費を抑制したいのなら、医療研究を止める覚悟も必要なのかもしれません。どんなに医学が進歩しても、人は必ず老化して、衰え、死にます。「医学の進歩=善」とは限りません。少なくとも、他の研究同様、費用対効果は考察されるべきです。

あらゆる分野で、日本はアメリカを基準にする傾向があります。医療についてまで「日本の医療はアメリカより10年遅れている」と言われることがあります。確かに医学をはじめ、多くの学問分野では、アメリカが最先端です。しかし、医学の進歩はアメリカ人全員の健康促進に必ずしも貢献していません。高額すぎる医療費を払えないため、先端医療どころか、日本並みの医療ですら受けられない人がアメリカ全体で何割もいるのです。ノーベル平和賞受賞者の大統領が(日本では50年以上前に実現している)国民皆保険を実施しようとしても、上記のように竜頭蛇尾で終わっています(ただし、長期間国民皆保険をアメリカで改善し続けたら、好ましい制度になっていく可能性は高いと思います)。

ほとんどの日本人は、ほとんどのアメリカ人よりも多くの病気について適切な治療を受けられ、ほとんどアメリカ人が支払うよりも安い医療費で済みます。私に言わせば、アメリカの医療は日本より10年、あるいは50年遅れています。

世界から注目される高齢化先進国・日本

「日本は世界最高の高齢化先進国ですから、日本がどうやってその問題に対処していくのか、私たちは注目しています」

大学時代に留学生たちから、こんな言葉をよく聞きました。日本の高齢化率が世界最高だということは、どんな発展途上国から来た人でも知っており、将来、自分たちの国がそうなることも知っていました。

その留学生たちと話していて、当初、私はこう思っていました。

(おいおい、あなたの国はまず人口爆発を心配すべきだろう。小児が下痢で死んで若者がエイズ赤痢で死ぬ国なのに、高齢化の心配? 時代感覚おかしいよ)

後でよくよく調べてみると、時代感覚おかしいのは私の方だと分かりました。

ほとんどの発展途上国では人口爆発は収束に向かっています。特に女性が生む子どもの数(合計特殊出生率)は大量出血患者の血圧のごとく、青ざめるような急降下を示していました。また、死亡原因における感染症割合は20年か30年以上も前に減少に向かっており、代わりに慢性疾患によるガンや心疾患が増加して、国全体の最大の死因になっていました。そもそも、全世界での平均寿命は71.4才(2015年WHO統計)になっていることからして、世界全体で高齢化が進むことは疑いようがなかったのです。

日本は他の先進国が100年かかった高齢社会を24年の短期間で到達してしまった、と言う人が現在でもいますが、時代遅れな見解と断定していいでしょう。これに限らず、「外国は欧米の先進国だけ」という狭い視野で「他の先進国と比べて日本はおかしい」と語るのは21世紀になって17年も経過した今、十分に注意すべきです。日本がおかしいのではなく、「他の先進国」が異常だったのです。大多数の国は、日本と同じか、もっと早いスピードで人口爆発社会から高齢社会を迎えようとしています。

発展途上国の20才前後の学生が将来の高齢社会を心配するのは、なんら不思議でなく、彼らが現役世代のうちに高齢化率21%以上の超高齢社会に到達する可能性だって十分あったのです。「発展途上国人口爆発エイズ感染症死多い」という私の発想は、少なく見積もって10年、場合によっては20年か30年も遅れていたのです。「変化のスピードが恐ろしく遅い時代」と日本人を批判している私も、世界全体の流れに遅れている日本人の一人だったようです。

戦争とマスメディア

「あなたはマスコミに洗脳されていない自信がありますか?」

ここで「全く洗脳されていない」と自信を持って言う人は、返って危険でしょう。新聞やテレビニュースを全く見ない人でも、マスコミでニュースを作る側にいる人でも、どんな人でも、自分が思っている2倍は洗脳されていると思います(なお、新聞やテレビニュースを全く見ない人やジャーナリストは自分が思う10倍は洗脳されているでしょう※)。それくらいの自覚は持っておくべきだと思います。

日本のマスコミは、特に新聞は、第二次大戦(日中戦争と太平洋戦争)を止めることはできませんでした。止めるどころか、どの新聞社も積極的に第二次大戦を応援していました。これは国家総動員法による強制があったからですが、それ以前より新聞は戦争を煽っていました。日露戦争でも反対論があったものの、開戦が近づくにつれ、もっとも反戦色の強かった万朝報でさえ戦争に賛成するようになり、開戦時の新聞は全て戦争賛美一色でした。

日露戦争時も、第二次大戦時も、戦争に疑問を感じていた知識人はいました。しかし、どの新聞も主戦論になって、戦争を囃し立てています。その最大の理由は、その方が新聞発行部数を増やせるからです。戦争ほど、新聞が爆発的に売れる事件はありません。母国が戦争になれば、誰だってその情報が知りたくなります。そして、ほとんどの国民は母国寄りの意見を好みます。母国が勝っていれば、それを派手に称賛した記事を読みたいでしょうし、負けても次には勝てるような勇ましい記事を読みたいでしょう。

戦争と新聞について考察した本は多くありますが、どれを読んでも、戦争のたびに新聞の発行部数が飛躍的に伸びたことを記しています。新聞社も私企業です。究極的には金銭的利益を求めます。そう考えると、新聞に戦争を止める力はないように思うかもしれません。

しかし、世界を見渡すと、マスコミが終わらせる役割を果たした戦争もあります。ベトナム戦争です。また、イラク戦争終結でもマスコミの影響は大きかったでしょう。戦争勃発を止めた例もあります。

ただし、これはアメリカの例で、それが可能だったのは、アメリカ人ジャーナリストたちに国際的な深謀遠慮があったからでしょう。日本人ジャーナリストで、そんな国際的な視野を持っている人は、いなくはないでしょうが、極めて少数のように思います。日本人の幼稚な外国嫌悪感情を抑制すべきなのは、そんな感情を持つ人がよく見るテレビや読売新聞や産経新聞でしょうが、これらのマスメディアに国際的な深謀遠慮を期待するのは、現状、無駄かもしれません。

 

※「新聞やテレビニュースを全く見ない人やジャーナリストは自分が思う10倍は洗脳されているでしょう」に疑問を感じる人がいるかもしれないので、書いておきます。
まず、「新聞やテレビニュースを全く見ない人」は知性が低いので、洗脳されやすいです。また、たとえ直接マスコミに接しなくても、周りの人を通じてマスコミの情報には接してしまいます。
「ジャーナリスト」は洗脳源にどっぷり浸かっている上、プライドが高く、辞めない程度にマスコミに疑問を感じていないので、一般の方以上に洗脳されているでしょう。
特に、「新聞やテレビニュースを全く見ない人やジャーナリストは自分が思う10倍は洗脳されているでしょう」と言われて、「そうかもしれない」と思わず、「そんなことはない」と思う人ほど洗脳されているに違いありません。

戦争と大衆

「あなたは母国が戦争したときに、戦争を支持する大衆の一人にならない自信がありますか?」

日清戦争日露戦争満州事変、日中戦争、太平洋戦争、これら全ての戦争で日本の一般大衆は開戦前から熱狂的に戦争を支持しました。「どうして日本はあんなバカな戦争をしてしまったのか?」は、第二次大戦後、何万回も日本人の中で問われていますが、「一般大衆が戦争を支持したから」がその最大の理由でしょう。つまり、日本人である「あなた」の責任でした。

GHQが戦争責任を軍人や政治エリートに限定してしまったことは、日本史上において痛恨の失敗だったと私は考えています。だから、現在に至るまで、日本人の大衆は「軍部が庶民を無理やり戦争に巻き込んだ」「空襲や原爆で庶民は耐えがたい苦痛を受けた」と考えて、第二次大戦の被害者意識から抜け切れていません。

「突然、小さな紛争が起こり、死傷者が出たために、お互いの敵愾心が強くなり、小競り合いを繰り返しているうちに戦闘は大きくなっていき、気づいたら、大戦争になっていた」ということが現在の日本で起こる可能性がゼロでない、と私は考えています。特に、このような流れができたとき、日本の一般大衆が歯止めになることは期待できないように私は考えています。私は自身のブログで政治家やジャーナリストなどのエリートを何度も批判していますが、「学歴社会嫌いな私が学歴好きになった理由」に書いたように、それでも知的エリートは一般大衆よりは高い倫理観を持っていると、自分の経験から考えているからです。

だから、世論を誘導できるマスコミには期待しています。自分が会ったこともないスポーツ選手が金メダルを獲っても自分の人生にはなんの関係もないのに、マスコミが報道しているだけで、一緒になって興奮してしまう被洗脳者が溢れているこの国で、マスコミが果たせる役割は大きいはずです。

しかし、次の記事に書くように、人間社会の性質とマスコミが私企業である以上、マスコミに戦争勃発を止める力はないようにも思います。

現在、メディアは新聞やテレビ以外にも、一般大衆が作るネット上に多く存在しています。これによって、マスコミの暴走を防ぐ効果はあるでしょう。このブログを読むような方は、広い視野と物事の本質を見抜く力をある程度持っているでしょうから、日本が本当に戦争に進みそうになった時、国境紛争が起こった時、ネットで情報発信して、その動きを逆転、静止、あるいは抑制してほしいです。

極端な話、たとえ戦争になったとしても、そんな良心的な日本人がいたことだけは一つでも多く記録として残しておいてほしいです。

小沢一郎の「自衛隊の国連軍化」案

日本外交のトラウマ」の記事で小沢一郎を名指しで批判したので、彼が日本最高のタカ派でないことを示しておきます(私がそう思っていないことを示しておきます)。「日本改造計画」(小沢一郎著、講談社)に書いているように、小沢一郎自衛隊を国連軍としてのみ活動することを提案しています。日本は第二次世界大戦を起こした国として、アジアの国々から軍事活動を警戒されています。だから、日本単独で軍事行動するのではなく、国際連合が平和維持のために必要だと判断した時だけ、他の国と一緒にPKF(平和維持軍)に加わるという案です。この理屈だと、2003年のイラク戦争は国連決議がないので、日本は参加できません。

この自衛隊を国連軍にする意見はタカ派からもハト派からも反対されて、現在、国会でろくに議論もされていません。私はこれが不思議でなりません。自衛隊自体いなくていいという極端なハト派や、日本が核を持つべきだという極端なタカ派を除けば、この意見に反対する理由が分かりません。おそらく、タカ派は国連の決定ではなく、日本が独自に決定した方がいいと考えているのでしょう。つまり、国連の決定よりも、日本政府の決定の方を信用しているのでしょう。しかし、イラク戦争の参加例にあるように、国際社会よりもアメリカに気をつかうような日本政府の方針を信用しているのでしょうか。そんな日本人が多いと私には思えません。

小沢一郎の主張のように、日本の軍事活動がアジアの国に危惧されているのも事実です。たとえば、自衛隊カンボジアへのPKO派遣では、アジアの国はもちろん、世界中の国が「第二次大戦後初めて日本軍が海外派兵した」と報道しました。当時既に戦後50年近く経っているにもかかわらず、「また日本が戦争するつもりなのか」と危険視されていたのです。日米安保条約について日本人はアメリカが日本を守ってくれる条約だと思っているかもしれませんが、アメリカ世論が考える日米安保条約の一番の目的は日本の防衛(12%)でなく、日本の再軍備防止(49%)です。(於衆議院憲法調査会 2004・5・12 小熊英二 第9条の歴史的経緯について)。アメリカだって、日本を信用していないのです。日本に侵略された過去を持つアジアの国はもっと日本を信用していません。

だからこそ、日本軍ではなく国連軍として活動すればいいのです。「日本が独自に判断して、アメリカに協力するときもあれば、国連に協力するときもある」のではなく、「国際連合が平和維持のために必要と考えた軍事活動に日本の自衛隊もいる」の方が国際的には納得してもらえるでしょうし、評価してもらえるはずです。

私の究極の理想は自衛隊自体いないことですが、まだまだ現実的ではないでしょう。そうであるなら、また自衛隊の活動を真の国際貢献につなげたいなら、自衛隊を国連に任せた方がいいだろうと思います。

 

※注意 カンボジアへの日本人派遣活動は、自衛隊派遣が必要だったかはともかく、大局的に成功だったと私は思います。現在、カンボジア親日国になっているのも、この時のPKOの日本人たちが活躍したからでしょう。ただし、自衛隊の活動よりも、その後の日本の民間人の地道な活動がカンボジア人を親日にしていったと私は考えています。

湾岸戦争のトラウマ

前回の記事の続きです。

湾岸戦争時の日本外交を例えるなら、次のような話になるでしょうか。

街のガソリンスタンドがテロリストたちに襲撃されたとします。あなたは他のガソリンスタンドを使うこともできたので、あまり関心がなかったのですが、街の自治会が一致団結して自衛団を作って、テロリストを掃討する計画を立てました。自治会はあなたの家族も自衛団に加わるように要求しましたが、「暴力による解決は避けるべきだ」を家訓とするあなたはそれを拒みました。すると、自衛団の中でいつも威張っているボスが「だったら金を出せ。あんたは金持ちだから、いっぱい払えるだろう」と要求してきます。あなたは家族内の反対を振り切って、不承不承で要求金額を払いました。その金を使って、自衛団たちは全く経済損失のないままテロリストを掃討できました。襲撃されたガソリンスタンドのオーナーは、自治会報に個人名をあげて感謝広告を出しましたが、あなたの名前はありませんでした。激怒したあなたがボスのところに行って、自分たち家族がいかに金銭的に貢献したかを述べると、ボスは「じゃあ、その金あげるから、お前の家族がテロリストと戦えよ」と言い返してきました。

あなたは「二度とこんな連中に協力するものか!」と思うのではないでしょうか。これで「ボスの言う通りだ。申し訳ない」と思ったら、あなたは家族から半殺しにされるでしょう。

しかし、多くの日本の保守派政治家は仲間から半殺しにされるような、その卑屈な思想に流れました。湾岸戦争後、国際社会で紛争が起これば、アメリカの言うように、日本人も参戦すべきだ、と考えるようになったのです。

今の若い人たちは知らないかもしれませんが、この時の思想潮流は、現在の日本外交政策に間違いなく影響を与えています。

この時から自衛隊の海外派遣がなし崩し的に行われていくことになります。「大量破壊兵器があるから」との理由で始まった2003年のイラク戦争でも、日本は自衛隊の現地派遣に徹底してこだわりました(そして「大量破壊兵器」はありませんでした)。

しかし、これらの自衛隊派遣は、憲法9条との整合性で問題があります。そして、「だから自衛隊派遣は止めよう」という意見にはならず、「だから憲法を変えよう」という意見になっていったのです。それが保守派政治家(および保守派国民)による昨今の憲法改正の大きな根拠です。

しかし、これは根本的なところで間違っているでしょう。前回の記事に書いたように、そもそも自衛隊を派遣しなくても、国際的な人的貢献は可能です。なにより、湾岸戦争時のアメリカ外交はどう考えても理不尽です。アメリカの横暴に追従して始まった自衛隊派遣を憲法改正してでも認めるべき、というのは滅茶苦茶です。そこまで日本はアメリカの従僕になるのでしょうか。

湾岸戦争のトラウマ」を知らない若い世代のために、これだけは書いておきます。前回の記事に書いたような見解は、1990年代にはそれほど珍しくありませんでした。左翼が嫌いな知識人でも「そこまでアメリカの言いなりになってどうする! アメリカの言う通りに自衛隊を派遣する必要などない!」という意見はよくありました。

「他の国が参加しているのに、日本だけが戦闘に参加しないわけにはいかない」という固定観念を持っている人もいるでしょうが、それは日本の常識でなかったことを知って(世界の常識でもありません)、その固定観念を何度かは疑ってみてください。

日本外交のトラウマ

湾岸戦争は1990年8月、イラククウェートに侵攻したことがきっかけとなって勃発しました。冷戦中はアメリカとソ連の拒否権発動でまともに活動していなかった国連安保理が、冷戦終結により一致団結して多国籍軍を結成し、1991年1月、あっという間にクウェートが解放された戦争です。

多国籍軍は34ヶ国70万人で結成されていましたが、54万人はアメリカ軍です。湾岸戦争は事実上、アメリカとイラクの戦争です。日本国憲法9条がある日本は参戦しませんでしたが、日本はなんと1兆5千億円(130億ドル)も湾岸戦争のために支出しています。アメリカが金を要求してきたからで、バブル期に対米弱腰外交を驀進していた日本は10億ドルをあっさり出して、アメリカ財務大臣が来日すると30億ドルも出して、それでも足りないと言われると、さらに90億ドルも支払っています。

しかも、金だけでは不十分で、与党自民党内には小沢一郎を筆頭に、自衛隊多国籍軍に加わるべきだと執拗に主張する者までいました。もともと大した政治信条のない海部首相はそれに洗脳され、アメリカ側代表者に「日本人は一人当たり100ドルも貢献した」と主張したものの、「では、100ドルあげるからあなたが戦場に行ってくれ」と言い返されると、なんと、海部はなにも言えなかった、というのです(「日本改造計画小沢一郎著、講談社)。

この時、あなたが海部首相ならどうしていますか? 私なら椅子を蹴っ飛ばして、「130億ドルももらって、感謝の言葉がないどころか、こちらを責めるとはなにごとか! だったら、今すぐ金を返せ! 在日米軍駐留費だって来年からは1円も払わない!」と叫んでいます。

湾岸戦争が日本外交のトラウマになっている最大の根拠は、クウェートニューヨークタイムズに出した「Thank you広告」です。湾岸戦争に協力してくれた50数ヶ国に感謝を示したのに、その中に1兆5千億円も寄付した日本の名前はなかったのです。

これも日本は激怒すべきです。「なぜ莫大な血税を寄付した日本の貢献が無視されているのか! クウェートにとって日本は大切な石油の輸出先だろう!」

私は長年そう思っていたのですが、クウェートが「Thank you広告」で日本を無視したのは、日本が寄付した1兆5千億円のうち6億円程度しかクウェートには回っていなかったことが原因のようである、と最近知りました(「戦地派遣」半田滋著、岩波新書)。そうであるなら、アメリカ軍(多国籍軍)だけに多額の寄付をしたことを反省すべきです。

「国家の命運」(藪中三十二著、新潮新書)で元外交官の著者が言っているように、「血税」の名の通り、お金は日本国民の血と汗の結実であり、命をかけて働いた成果です。1兆5千億円といえば、競技場からシンボルマークまで日本中で争点になった2020年東京オリンピックの予算1兆6千億円から1兆8千億円に匹敵します。それほどの金額を寄付したのに感謝されないなど、国家として、政治家として、許していいわけがありません。

それに人的貢献といっても、戦闘行為そのものに参加しなくてもできます。平和構築の分野で、兵士でなく民間人が人的貢献できるのです。

「国家の命運」に、こんな例が書かれています。2008年末、アメリカの高官が「アメリカは『Yes, we can.』という雰囲気だが、日本はいつも通りの『No, we can not.』だ。アフガニスタンにしても日本は自衛隊も出せず、大した貢献はできないのだろう」と言ってきたので、著者の外交官は立ち上がり、こう言い返したそうです。「日本はアフガンの地で5百の学校を建て、1万人の教師を養成し、三十万人の生徒に教育を与えてきた。50箇所に病院を作り、40万人分のワクチンを供与してきた。650キロに及ぶ難しい道路を建設し、カブール空港のターミナルも完成させた。今もJICAが派遣する60人の専門家集団が現地の人々と一緒になって汗をかき、農業、医療、教育などに携わっている。アフガンの8万人の警官の給与の半分を日本が支払っている。こうした日本の支援は、アフガニスタンの大統領から一般市民まで幅広い人たちに感謝されている。これこそが日本の『Yes, we can.』である」

アメリカの高官は一瞬、驚きと戸惑いの表情を浮かべて、「いや、日本がそういう活動をしているとは知らなかった。素晴らしいことだ」と返したそうです。

湾岸戦争時のアメリカの日本に対する横暴な態度は理不尽極まりありません。その横暴な態度に卑屈になった政治家は国賊と非難されるべきです。

しかし、この記事に書いたような見解から、日本政府が湾岸戦争時の外交をトラウマにしているわけでは全くありません。実際、「アメリカの横暴外交に同調しない」「戦闘行為以外にも人的貢献はできる」という主張など、日本政府から聞いたことがないはずです。

知っている人も多いでしょうが、十分に知らない若い世代のために、その事実を次の記事に示します。

親が子どもの名前をつける制度

先日、ある飲み会で自己紹介しました。自分の子どもが欲しいこと、子どもの教育本を100冊以上も読んでいることを熱弁しました。

「あれ? 結婚してましたっけ?」と聞かれて、「結婚どころか彼女もいません!」と言うと大ウケして、次に「子どもの名前はなにを考えていますか?」と聞かれて、私はこう答えました。

「もちろん、子どもの名前も考えています! ただし、僕一人で決められるわけではなく、将来の妻とも考えていくべき問題なので、秘密です!」

私の返答で「流行りのキラキラネームだ!」とか「〇〇なんて名前つけられた子どもに限って反対の××になったりするんだよね」とかで笑おうと思っていた人たちが、真面目な返答に引いていくのが分かって、そこで止めました。しかし、実際は主張したいことがまだありました。

「そもそも、親が名前を決める現状のシステムに私は反対です。よほどのことがない限り、名前はその人に一生着いて回ってしまいます。イジメの原因にもなります。本来なら、ある程度の年齢になったら、本人が自分で名前をつけられるようにするべきだと私は考えています」

飲み会の自己紹介でここまで言ったら、変人が確定するので、さすがに言いませんでした(ここで確定しなくても、日本人集団にいる限り、いずれ私の変人評価は確定しますが)。

あらゆる調査結果が示すように、多くの人は自分の名前が好きです。私は例外で、自分の名前が嫌いです。若い頃はもっと嫌いでした。

自分の名前が好きな人が多い理由は「不満のない幸せな人生を送っているから」「(無意識のうちに)自己肯定感の強い自分になっているから」が大きいでしょうが、「名づけた人(多くは両親)との関係がいいから」も大きいでしょう。一方、私は自分の名前をつけた両親との仲が最悪です。

どんな時代のどんな社会でも、親との関係が悪ければ、その後の人生は恵まれたものにはならず、出世しません。だから、過去から現在まで、親が子どもの名前を決める制度を変更しようとする動きは生まれないのでしょう。

とりわけ日本のように少数派が迫害されやすい社会では、「子どもの名前を親が決めるのはおかしい」という疑問すら口にするのが憚られてしまいます。「なんで自分の名前が嫌いなの?」「別に変な名前じゃないでしょ?」について、私が真摯に上記のような主張をしても、変人扱いされるのがオチです。

名前の問題を考えると、親との関係がいい人たちだけで社会体系が構成されている、といつも私は考えてしまいます。当たり前ですが、子どもは親を選んで生まれてくるわけではありません。親といい関係を築けた人たちに「もし、ひどい両親の元に生まれていたら、自分の人生は一体どうなっていたか」を考えてもらいたいので、この記事を書いておきます。

人は自分のためにしか生きられない

前回までマザー・テレサナイチンゲールガンジーと3名の私の尊敬する人物を紹介させていただきました。この3人は自分を犠牲にしてでも他者のために生きていますが、なぜそんなことができたのでしょうか? 

その理由は誰にも特定できないでしょうが、3人ともが非常に恵まれた子ども時代を過ごしていることはその必要条件だった、と私は考えています。不幸な子ども時代を送った者ほど、人の不幸が分かるとは思いますが、だからといって、人に優しくできるとは限りません。不幸なほど人は心に余裕がなく、他人に優しくできなくなる場合の方が多い、と私は考えています。

また、3人とも他者を助けることで、自分の中で充実感が得られたから、慈善事業にあれほど人生を費やせたのだと確信します。なんの見返りもなく、誰からも称賛されず、実践しても辛いだけだったら、3名とも偉業を成し遂げることは不可能だったと私は考えます。

究極的に、人間はなんの満足感もない事柄を継続することなどできないでしょう。完全な自己犠牲など不可能で、全ての慈善活動は偽善的な側面、自分のためにしている側面があると私は考えています。全てなので、上の3人の慈善活動も偽善的側面はあると見なしています。

「究極的に人は自分のためにしか生きられない」の考え方は、私の社会観の大きな柱になっているので、これまで多くの日本人、外国人に語ってきました。その経験では、カナダ人の多くがこれと同様の考え方を持っていたのですが、日本人だとこの考え方に強い反感を示す人が少なくありませんでした。反感を示す方たちは、人間の浅い内面しか見ていないように思えてなりません。

非暴力を成功に導いたガンジーの実像

20世紀に最も人類に貢献した人物といえば、ガンジーだと私は考えています。もっと言えば、人類史上で彼ほど偉大な人物はいない、とさえ考えています。

暴力に対して非暴力で対抗する理想主義を主張するだけでなく、その実践により、大英帝国が絶対に手放したくなかった植民地インドの独立を達成させた功績は、歴史上比類ないものがあります。その理想主義に感銘を受けた人物にはアインシュタイン、マーティー・ルーサー・キング、ダライ・ラマネルソン・マンデラなどのノーベル賞級の著名人をはじめ枚挙に暇がありません。ガンジーがいなければ、理想的すぎると批判される日本国憲法9条もなかったでしょう。冷戦が第三次世界大戦にならずに終結した理由の一つには、ガンジーの非暴力の思想と功績が世界中に広まっていたことがあると私は考えています。

ただし、そんなガンジーも人間です。欠点はありますし、失敗を何度も犯しています。以下、「ガンジーの実像」(ロベール・ドリエージ著、白水社)を元に、ガンジーの欠点と失敗の代表的なものを示していきます。

ガンジーはロンドンに留学するほど裕福な家庭に育っています。イギリスで弁護士資格を得たガンジーはインドに戻って弁護士業を始めますが、すぐに挫折して、南アフリカに行きます。この南アフリカ滞在中に列車から放り出されるなどの理不尽な人種差別を受け、ガンジーは人権擁護の活動家に生まれ変わります。ただし、この人権擁護の対象はインド人だけでした。ガンジーの自伝には250ページも南アフリカに費やされているものの、南アフリカの圧倒的多数の被差別人種、黒人については全く触れていません。ガンジーにとって南アフリカの人種問題は、インド人が白人と対等になることが全てだったようです。

ガンジーの政治感覚は、今から考えれば、甚だしい見当違いが少なくありません。たとえば、1930年代のヨーロッパ訪問で、ガンジーユダヤ人問題について次のように発言しています。「ユダヤ人が消え去ったなら、彼らの人類に対する貢献は最大となる。私がドイツのユダヤ人の立場なら、亡命を拒み、苦しみの中に喜びを見出すだろう。もしもユダヤ人がこの考えを受け入れるなら、虐殺も喜びの出来事であろう」

西洋文明を嫌悪するガンジーの考えは全く科学に基づいてはいませんでした。特に健康についての考えは、ひどいの一言に尽きます。ガンジーの著作である「健康の手引き」は日本の巷に溢れるトンデモ本よりも非科学的で、もはや宗教本と言っていいでしょう。肉食は最も遅れた民族の食事で、お茶とコーヒーは脳を障害させ、カカオは感触を鈍くする毒を含み、牛乳や豆まで有害だとの主張には何の根拠もありません。ガンジーと同じ遺伝子と同じ生活習慣を持つ人でなければ、絶対に実践してはいけません。

ガンジーの教育論も極めて独善的です。科学技術を徹底的に批判していたガンジーは、教育に本の使用、つまり教科書の使用を認めませんでした。教育すべき唯一の技術は、手紡車と手織機だと本気で信じていたのです。恐ろしいことに、ガンジーはアシュラムという道場で、自身の息子を含めた何名かの子どもにこの教育方法を実践しました。当然のように、その子どもたちは文章もろくに読めない、知性も感性も精神力も弱い大人になり、挙句、ガンジー自身にも疎まれた者までいます。

マザー・テレサナイチンゲールもそうですが、ガンジーも伝記(偉人伝)ではその欠点がほとんど書かれていません。あるいは欠点も長所のように解釈する本まであります。どんな聖人でも欠点があり、失敗することは当たり前なので、子ども向けの伝記だとしても、正しい人間観を養うため、それらは欠かさず書いておくべきだと私は思います。