未来社会の道しるべ

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世界一自意識過剰な日本人は世界一美しくなったけれども

個人としての日本人ほど、他人からどう見られているか、どう思われているかを気にする意識=自意識(self-awarenessではなくself-consciousness)が過剰な人はいないでしょう。私は日本人にしては自意識が低い方だと思いますが、それでも海外にいる時と比べて日本にいると、どうしても恥や外聞を気にしてしまいます。

「オリーブの罠」(酒井順子著、講談社現代新書)という本があります。このブログで紹介したくないほど、倫理観や社会観や人生観に劣る著者によって書かれています。典型的なバブル世代の人で、その必要が全くないのに、50才近い自分の写真を本の扉に掲載しています(そういえば、海外の人は日本人ほど写真を自分の本や記事に載せません)。ただし、日本人の自意識を考察する上では有効のように感じました。

世界中どこでも、自意識が最も過剰なのは、中高生の女子でしょう。だから、世界一自意識過剰な日本人の中高生女子は、自意識過剰の極地まで到達した人たちになっているようです。「オリーブの罠」を読めば、そうとしか思えません。

当然ですが、美とは相対的なものであり、他者によって定義されるものです。「自分が美しい」という感覚は、人間一人で成立しません。人間一人であったら「澄み切った青空は美しい」といった美的な感覚が存在する程度でしょう。それは雨による災害のない、移動しやすい環境を意味する青空に生物進化の長い期間、安心を感じてきたことに原因を求められるのかもしれません。しかし、「オリーブの罠」に出てくる日本の中高生女子は、そんな生物普遍的な美を追及しているわけでは全くありません。「自分としての美しさ」を肯定していますが、あくまで自意識としての美しさなので、現実は「他者から美しいと思われて満足している自分」を追及しています。その時点で大きな矛盾があり、「自意識の美しさ」を求めるのは「他者に自分を美しいと思ってもらいたい欲求」が必ず背後にあるので、決して純粋なものではなく、称賛されるべきものでもないと思うのですが、それについては上記の本で一切触れられていません。著者は50才近くなるのに、それに気づいていないか、それを理解できないかのどちらかのようです。

私はもう若者と言えない年齢になっていますが、それでも「オリーブの罠」のバブル感覚には古臭さを感じてしまいます。とりわけ、「西洋人はカッコいい」という感覚の異常な強さには違和感があります。そういえば、私も子どもの頃にそんな感覚がありましたが、実際にカナダに1年以上住んでみて、そんな感覚はすっかりなくなりました。西洋人がみんなハリウッドスターのようにカッコよく、美しいはずがありません。カッコ悪い人もいますし、太った人もたくさんいます。

カナダにいた人で「カナダ人は日本人よりカッコいい」と言う人には一度も会ったことがないのに、「日本人はカナダ人よりカッコいい」と言う人には何度も会ったことがあります。というか、私自身も「カナダ人は、なんであんなにダサいんですか?」と言っていました。カナダ人にも「日本人はオシャレだ」とよく言われました。

ただし、このブログで何度も書いているように、カナダ人はそもそも外見を重視しません。だから、「日本人はオシャレだ」というのも、「日本人は服に金をかけすぎている」「日本人は厚化粧だ」などと悪い意味で指摘されることの方が多かったです。

私がこんな記事を急に書きたくなったのは、今朝の朝日新聞で次のような記事を見つけたからです。

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「自分らしく楽しもう」という趣旨で「地域別のスカート丈の長さ」の調査記事を書いた、と主張しています。もう矛盾だらけで、どこから指摘していいのか私には見当がつきません。ともかく、私が上記で指摘したような視点は、この30才にもなる一流新聞社記者にすら、皆無のようです。バブル世代に絶頂に達した日本人中高生の美意識は、現在も受け継がれているのかもしれません。

別の見方をすれば、自意識の美を極限まで追及してきたからこそ、日本人は世界で一番美しい人たちになったのかもしれません。しかし、美しさで西洋人に勝ったことで、日本人は満足しているのでしょうか。それで西洋人より幸せになったのでしょうか。全体として西洋人に勝った、と思っている日本人がどれくらいいるのでしょうか。

日本人が美しさの追及に費やした活力を、内面の研鑽に向けていれば、今の日本は全く違った社会になっていたことでしょう。嘆いても過去は変わらないので、もういいかげん十分すぎる美の追及はやめて(特に自意識の美の追及なんて完全にやめて)、内面を磨くようにしていくべきでしょう。