40代以上の方なら覚えているでしょうが、インターネットの草創期、ネットは政治を良くすると期待されていました。多様な人々が時間と空間を越えてコミュニケーションし、相互理解を進めることができるからです。争いごとは無知と誤解から生じることが多いので、ネットを通じて、多様な意見に出会う機会が増えれば、争いごとは減っていくと夢想しました。
多くの方が知っている通り、現実には、ネットにより分断が生じました。下はその証拠のグラフです。それぞれの政治問題について「強く賛成」「賛成」「やや賛成」「どちらでもない」「やや反対」「反対」「強く反対」の7段階のアンケートを取りました。「ネットは社会を分断しない」(田中辰雄、浜屋敏著、角川新書)によると、全ての政治問題について、ネットを毎日使う人ほど「強く賛成」あるいは「強く反対」の割合が増しています。
理由は選択的接触にあります。これまでのマスメディアでは、嫌でも反対意見に接しなければなりませんでしたが、つまみ食いが可能なネットであれば、見たい情報だけ、読みたい情報だけ、選択して得ることができます。一般社会では、意見の違う相手と接触しなければなりませんが、ネットであれば考え方の似た者同士だけで交流することも可能です。同じ意見の者同士ばかりで交流していれば、次第に意見は強化され、先鋭化していきます。結果、社会の分断が進みます。
極端な意見を持つ者が多くなる弊害はいくつもあります。
第一に、議論が不毛になることです。異なる意見の者同士の議論により、お互いに気づかなかった欠点を知り、それらを上手く解決する新しい案や妥協点が見つかったりすることがあります。しかし、意見の相違が大きくなると、そのような議論を通じた気づきと改善の努力が放棄され、極端な案のまま硬直して、非難や罵倒を繰り返すだけになりがちです。トランプ前アメリカ大統領の時の政権支持派と不支持派の対立で、このような現象が起こっていました。
第二に、意見の相違があまりに大きくなると、民主的意思決定自体に疑念を持ち始めることです。民主政治は「選挙」で勝った方が政策を実施しますが、この時選挙で負けた側も、勝った側の言うことをある程度受け入れる必要があります。今回は勝った側の政策に従うが、その政策が失敗すれば自分たちの番だと思えます。しかし、意見の相違が大きすぎると、負けた側が選挙の結果に納得できずに徹底的に抵抗して、勝った側の政策が実行できずに、政治が機能不全に陥ります。やはりトランプ支持派と不支持派で同様な対立が生じています。
第三に、異質な二つのグループのうち、片方が少数派に陥ると、選挙では常に負けるため、少数派は民主的な選挙結果を受け入れず、代わりに何らかの実力を行使し、分離・独立を求めたりします。これもトランプ支持派と不支持派で起こった問題です。
このようにネットで自由に意見を言えるようになり、極端な意見を持つ者が増えて、結果、民主主義が機能しなくなる危険性が21世紀に現れてしまいました。この問題が深刻なのは、自由と民主主義が矛盾する構造になっていることです。ネット上で自由な言論活動を許せば、社会の分断が起こり、民主主義が機能不全になります。しかし、言論の自由と民主主義は本来、互いに強め合うはずでした。自由な言論があってこその民主主義であり、民主主義こそが自由な言論を促進したはずです。
しかし、個人が自由にネットを使えば、どうしても同じ意見の者同士で交流しがちです。違う意見の者同士で意見を言い合うのは大抵ストレスを感じるものですが、同じ意見の者同士で言い合えば誰もが賛同してくれるので快感です。保守的な人が好き好んで革新的なグループに入ることなどありませんし、その逆も然りです。
では、どうすればいいのでしょうか。民主主義を守るため、社会の分断を防ぐために、ネットの自由を制限すべきなのでしょうか。しかし、どう制限すればいいのでしょうか。ある意見が「極端」であるかどうかは、主観的な判断です。それに、極端であるが、本質を突いた意見も存在します。言論統制は一度始めると、戦前の日本のように拡大解釈されがちです。そうなると、言論の自由はたとえネットであろうと認めるべきで、それによっておかしくなる民主主義の方を変えるべきなのでしょうか。しかし、そうなると、やはり民主主義をどう変えればいいのか、という問題が出てきます。
以上が「ネットは社会を分断しない」の最初の2章で論じていることです。ある程度、政治とネットについて知っている人なら、上記の問題には気づいていたのではないでしょうか。
「ネットは社会を分断しない」が提示する答えは、その本のタイトル通り、「自由の制限もしなくてよければ、民主主義を変える必要もない。なぜならネットによって社会の分断は起こっていないからだ」になります。
どういうことでしょうか。次の記事に続きます。