「戦争まで」(加藤陽子著、朝日出版社)を読んで、失望しました。
「太平洋戦争と日露戦争の相似」で示したような加藤陽子の道徳観の浅さは相変わらずですが、歴史の本質を見抜く能力の低さにも失望しました。
加藤は「アメリカが強気で出れば日本は戦争しないと考えていた人がいたように、日本も強気で出ればアメリカは戦争しないと考えていた松岡洋右のような人がいても不思議でない」と当時のアメリカの日本の軍事力の差を無視し、保守派が喜びそうな持論を展開しています。他にも、共産党の見解を陰謀論と吐き捨てるほどの加藤は保守派なのに、それでも日本だと革新的すぎると考えられるようで、2020年に日本学術会議の会員になることを菅首相によって任命を拒否された6人のうちの1人になっています。「日本で革新的でも西洋では保守的である」が現在でも通用している実例でしょう。
一方で、加藤は「ローズヴェルト大統領やハル国務長官など何名かは真珠湾攻撃を知っていたが、現地の人に知らせなかった。これは全くの嘘であることは、アメリカの国防総省が研究し続けていることから分かる」と断定するほど、アメリカ寄りです。「岩倉外交が不平等条約を改正できなかった理由」に私はこう書きました。
岩倉具視を筆頭に、この使節団の日本人は国際的にとても通用しない考え方をする者ばかりでした。一方、国際的に通用する考えをする日本人は、本人は無意識かもしれませんが、必要以上に西洋びいきです。厳密にいえば、同じ人物が「国内でしか通用しない考え方」と「国際的で西洋寄りの考え方」を直線で結んで、その間を行き来していたようです。この当時、国際的に通用する理屈を駆使して、日本の利益になる交渉をできる政治家がいなかったのです。国内でのみ通用する政治家が大部分で、一部の国際政治家は西洋を崇拝している状況は、当時だけでなく、現代日本にまで連綿と続いている伝統ではないでしょうか。
加藤は政治家ではなく学者ですが、「必要以上に西洋びいき」になっており、「国内でしか通用しない考え方」と「国際的で西洋寄りの考え方」を直線で結んで、その間を行き来しているようです。
「戦争まで」は「太平洋戦争と日露戦争の相似」と「『満蒙は日本の生命線』とはなんだったのか」の記事で取り上げた「それでも、日本人は戦争を選んだ」(加藤陽子著、新潮文庫)の続編にあたる本です。
満州事変から太平洋戦争までの間に、日本がアメリカとの戦争を避けるための決定的な機会として、リットン調査団への対応、日独伊三国軍事同盟締結、1941年の日米交渉の三つを挙げています。
その三つが、1941年12月からの日米決戦を避ける機会であったことは私も同意します。しかし、満州事変という越えてはならない一線を越えてしまった後なので、その三つの機会で当時の日本がどうしようが日米決戦は避けられない、つまり世界大戦で日本は大敗したと私は考えます。
第一のリットン調査団への対応ですが、「満州事変は日本の自衛のための戦争でない」「満州国を認めない」を三大結論の二つとする(もう一つの大結論は「中国の日本製品のボイコットは中国国民政府によるもの」)リットン報告書を日本の陸軍が受け入れる可能性があったとは考えられません。リットン報告書に理不尽に憤慨して1933年に日本が国際連盟を脱退しなかったとしても、日本が満州から撤兵しない限り、そう遠くないうちに日本は国際連盟を脱退していたに違いありません。
第二、第三の日独伊三国軍事同盟締結時や1941年の日米交渉でうまくすれば、1941年12月からの太平洋戦争勃発は避けられたでしょう。しかし、アメリカとの対立が生じた根本原因である(満州事変から続く)日中戦争を止めない限り、日米開戦は不可避でした。たとえ、日本がドイツと軍事同盟を結ばなかったとして、第二次世界大戦にも加わらなかったとしても、日本が中国と戦争を続けている限り、アメリカ、場合によってはソ連も、日中戦争に介入していました。その場合、日本に落とされた原子爆弾は2つで済まなかったかもしれません。
大局的にみれば、「満州事変後、日本はどうすればアメリカとの戦争を避けられたか」の模範解答は「どうやっても避けられない」になるでしょう。あるいは「その問題提起自体がナンセンス」も正解でしょう。「日本がアメリカと戦争しないためには満州事変を起こすべきでなかった」ので、「満州事変を起こさないためにはどうすればよかったか」が本来提起されるべき問題です。
そのためには、統帥権の暴走を生む契機となった1930年のロンドン海軍軍縮条約までは戻るべきです。ここで国会野党の犬養毅や鳩山一郎、枢密院の伊東巳代治や金子堅太郎が「統帥権干犯問題」という憲法問題を言い出さなければ、軍部の独走も、満州事変も抑えられたかもしれません。統帥権について少しでも勉強した人には常識でしょうが、「統帥権の独立」とは、軍部が言い出したことではなく、政治家が言い出した憲法解釈で、結果として政治家が軍事に口を出せなくなる墓穴を掘っています。
もっとも、その程度でも不十分でしょう。次の記事でも言及する通り、八紘一宇、神国日本などの国粋主義思想に日本全体が陥りすぎて、それに反する思想を徹底的に委縮させたことが根本原因です。
やはり「日本が負けるに違いない太平洋戦争を始めた本質的理由、あるいは日本が第二次大戦で負けた本質的原因」に書いた通り、第一次世界大戦を契機に「自由と平等意識の向上」と「世界全体の中で日本を客観視すること」が最重要だったと考えます。
次の記事で「戦争まで」について、さらに考察します。