前回の記事の続きです。
「戦争まで」(加藤陽子著、朝日出版社)には、リットン報告書が出た後でも、日本が国際連盟から脱退しないですむ方法を提案しています。結論から言うと、そんな方法はあるわけがなく、満州事変を起こした時点で、日本にできることは国際連盟を脱退する時期を先延ばしする程度でした。
上記の本では、アメリカに蛇蝎のごとく嫌われて、戦後も当然のようにA級戦犯被告にされた松岡洋右が、なんと「国際連盟から脱退するな」「国家の前途のために妥協しろ」、と日本政府に打電していた事実を示しています。
松岡は「連盟の面目が立つように、事実上、本件から連盟が手を引くように誘導する」という本国からの訓令を受けていました。この訓令通りに、イギリスのサイモン外相が、日本と中国、それにイギリス、中国、ソ連を呼んで、5大国でひざ詰めで話し合いませんか、と提案してくれたのです。満州事変について、国際連盟で決議を出さず、国際連盟とは別の場所、5大国会談で話し合う、という訓令通りの提案です。松岡は渡りに船、とその案に乗りました。
しかし、当時の内田外相がその案を突っぱねます。内田外相は、中国国民政府との直接的な交渉で問題をまとめられると楽観していたそうです。最後まで日本が中国側に強気に出れば、中国側は屈服してくる、と中国国内の対日妥協派に過大な期待をかけていたようです。この内田の楽観について、「天皇は全然納得していなかった」との記録が残っています。周知の通り、内田の楽観は誤認だったと歴史が証明しています。
「戦争まで」に、もし5大国で話し合えば、アメリカ、ソ連の当時の状況から、満州国は承認され、日本が連盟を脱退しなかったかもしれない、と著者の「楽観」が書かれています。繰り返しますが、それは連盟脱退の延命策になる程度で、満州事変後の日本の連盟脱退は不可避です(断定します)。
1933年にアメリカで孤立主義のローズベルトが大統領になっただの、ニューヨークタイムズの「中国は国際連盟に規定された国家の定義にあてはまらない」の記事だの、ソ連の5ヶ年計画の失敗で数十万の餓死者が出ただの、ソ連領内の満州国公使館の建設の許可だの、些末な事実をいくつも見つけて、著者は楽観していますが、大局観がなさすぎます。満州事変が成功した時点で、満州から日本が撤兵することなどありえず、そうであれば、侵略国家日本を世界が受け入れるわけがありません。そんなことも分からない人が日本最高の大学で歴史学の教授になれた事実に失望します。
ところで、この本で私は初めて知ったことですが、団琢磨が暗殺されたのは、団がリットンと会った翌日だったそうです。犬養毅もリットンに会った後に暗殺されています。
この時代の国家主義者たちの暗殺の横行がそれに反する意見を委縮させ、日本を大戦争の敗北へと進ませています。結果、300万人の日本人が殺され、その数倍のアジアの同胞を日本人が殺すことになります。
そんな不正義な殺人を大量にしたり、大量にされたりするくらいなら、なぜ桁違いに少数である血盟団や青年将校たちを殺さなかったのでしょうか。天皇や国体といった人類普遍の正義に反する「正義」のために特攻隊として死ぬくらいなら、なぜ人類普遍の正義のために日本人は死ぬ気で1920年代や1930年代に過激な国粋主義思想を潰しておかなかったのでしょうか。こんな意見を今まで聞いたことがなかったので、あえてここで書きました。
この本は、日独伊三国軍事同盟についても詳述しています。この軍事同盟は、第二次大戦のヨーロッパ戦域でドイツが快進撃を続けているから、「バスに乗り遅れるな」という流れで日本は拙速に結んでしまった、と一般に言われます。著者はそうでない、とわざわざ見出しで否定していますが、どう考えても、一般論が正しいでしょう。
著者が示している通り、この条約はわずか20日という異常な短期間で結ばれています。日英同盟は、両国の勢力範囲でもめたため3ヶ月もかかった、と対比して、その短さを強調しています。
日独伊三国軍事同盟によって、日米の敵対関係は決定的になります。当時、ドイツはイギリスと戦争しており、そのイギリスをアメリカは全面的に支援していたことが大きな理由の一つです。だからこそ、翌1941年の日米交渉でも、日本がアメリカと交易したいのなら(石油を輸入したいのなら)、日独伊三国軍事同盟は破棄しろ、と何度もアメリカは要求しています。
当時、日本は石油のほとんどをアメリカから輸入していたので、アメリカとの関係が悪化したら極めて困りました。戦争中の最大の石油消費者である海軍にとっては死活問題でした。だから当然、日独伊三国軍事同盟を結ぶべきかどうか、1940年9月19日の御前会議で話された時、海軍は反対しました。ちなみに、その直前の9月4日には、三国同盟に最後まで同意できなかった海軍大臣の吉田が辞職してもいます。
このように、日独伊三国軍事同盟の争点は、日米関係が悪化するかどうか、より具体的にはアメリカが石油の禁輸をするかどうかにありました。戦後から歴史を振り返った時、これが正しい見解ですし、私も長年、そうだと考えていました。
しかし、実質的な議論をした1940年7月12日と16日の2回の「日独伊提携強化に関する陸海外三省係官会議」の議事録の争点は、全く別でした。なんと「ドイツの牽制」が争点だったのです。ドイツに負けた国、特にフランスやオランダが持っていた植民地の行方を一番心配していたのです。
意味不明です。どこまで世界情勢を見間違っていたのでしょうか。
ともかく、この時の三省係官会議の議事録を引用します。
陸軍の大野大佐の発言です。「ドイツは蘭印(今のインドネシア)、仏印(今のカンボジア)、中国に対して経済活動を活発化させるだろう。よって、日本の対仏印、対蘭印政策は、ドイツの工作を予防するため、急ぐ必要がある。戦後、ヨーロッパでの勝敗問題が東南アジア地域に及んでくるのは避けたい」と言っています。
海軍の柴中佐の発言です。「来日したドイツの経済人などは、ドイツの経済が戦争で疲弊してなどいないと述べていた。戦時体制に対応するために活性化された経済は、戦争が終わると余剰生産を生むに違いなく、ドイツはアジアに回帰してくるはずだ」
陸軍の高山中佐の発言です。「ドイツの対ソ政策がどうなるかによって、仏印や蘭印に対するやり方も決まってくると思う。仏印と蘭印を日本に任せる、とドイツが言ってくれれば本当に良いが、(ソ連と戦わず)ヨーロッパ建設だけに邁進するとなると、これら仏印蘭印を、ドイツは積極的に手に入れようとするので面倒だ」
陸軍参謀の種村少佐の発言です。「結局、海軍力が物を言うと思う。海軍力を持たないドイツがいかに頑張ったところで、日本の海軍勢力圏内では日本に対抗できない。問題は日本の腹一つで決まる」
9月の御前会議で最大の争点であった、アメリカとの関係悪化については全く論じられていません。アメリカという言葉すら出てきていません。この時代、軍関係者の海外情勢の情報源はほとんどドイツだったことが証明されています。
1941年にアメリカが石油禁輸に踏みこんだ直接の契機は、日本の南部仏印進駐です。これはドイツの傀儡であるフランスのビシー政権に許可を得た平和的進駐だったせいか、陸海軍はおろか、当時の近衛首相ですら、これでアメリカが石油禁輸することを予想していませんでした。そして、このアメリカの石油禁輸こそ、日本がアメリカとの戦争に訴えるしかない、と考える最後の分水嶺だったことは周知の通りです。
1940年夏頃からの東南アジア植民地に対する日本の間違った認識(アメリカは関与しないとの勝手な期待)が、太平洋戦争の直接の契機になったことは日本人なら覚えておくべきでしょう。高校の日本史の教科書には必ず載せて、場合によっては中学の社会の教科書にも載せてほしいです。
この本では、興味深い日本政治の本質も書かれています。
「当時も今もそうだと思いますが、日本では多くの場合、トップの政治家が政策を考案しているのではありません。だいたい、担当各省庁の課長級の人々が集まり、合議を重ね、文案をこしらえて、それを各省庁のトップに上げて、決済を仰ぐといった決定されていく方式がとられています」
だから、戦前の御前会議で論じている内容は、大臣や次官が議論すべきと決めたものではなく、40才前後の各省の課長たちが決めたものなのです。もちろん、課長たちから上がってきた案を拒否することもできるのですが、多くの場合、大臣や次官たちが考えても優れた案なので、御前会議は、その案をだいたい受け入れていました。実質的に、日本の政治を動かしているのは、各省の課長たちだったのです
そして、「当時も今も」と著者が書いている通り、この各省の40才前後の課長たちが日本政治を動かしているのは、現在も続いています。私も10年以上前から、それについて知ってはいたので、「日本は政治家より官僚が強い」の記事で触れています。
以上から、「日米開戦が起こった直接の原因は、各省の大臣たちは正しく認識していたのに、各省の課長たちが東南アジア情勢を誤認したからだ。だから、各省の課長たちでなく、各省の大臣が日本を動かす制度に改革すべきだ」という意見も出てくるかもしれません。
しかし、私はその意見に反対です。上記の通り、各省の課長たちの提案だけしか、閣議でも話されない伝統は今も続いているようですが、閣議で拒否する権利は今も昔もあります。だから、御前会議で日独伊三国軍事同盟を拒否することはできたし、南部仏印進駐を拒否することもできましたが、大臣たちが最終承認して実行されているので、究極的には課長たちより大臣たちの責任です。上記の通り、各省の課長たちの提案は、大臣たちが考えても優れているからこそ、御前会議や閣議でも承認されています。現実問題として、現場をよく知る各省の課長たちの方が、大臣たちよりも、素晴らしい提案ができるのでしょう。だから、この問題を解決する最良の方法は、「提案を課長でなく大臣にさせる」ではなく、「各省に有能な課長を任命し、課長に質の高い情報を集める」だと私は考えます。
この理屈でいけば、1940年~1941年の東南アジア情勢を誤認しないための解決策は、「各省の課長がドイツからの我田引水な情報に惑わされず、アメリカやイギリスからの質の高い情報を集めるべきだった」になるでしょう。
また、「なぜ陸海軍の課長クラスは東南アジア情勢をここまでひどく誤認してしまったのか」の答えは、やはり「バスに乗り遅れるな」という思潮に日本で最も優秀な軍官僚たちも流されたからになるはずです。