未来社会の道しるべ

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大津中2いじめ自殺事件

前回の記事の続きです。闇に葬り去られるはずだった大津中2いじめ自殺事件の状況が一変したのは、2012年7月です。既に事件から1年近く経過していたのに、共同通信社の記者が「自殺の練習をさせられていた」情報に、今更ながら「1986年の葬式ごっこ事件」を思い出し、周回遅れのスクープを出してからです。他のマスコミ各社も、大津中2自殺事件の悲惨さ、異常さを次から次へと報道するようになりました。それまで事件を穏便に済ませることを最優先にしていた学校側も、この報道ラッシュを無視することは許されなくなり、再度、記者会見を行います。今でもその時の記者会見はyou tubeなどで観ることができますが、そこでの校長は時にうすら笑いを浮かべ、事件の深刻さを感じているようにはとても見えません。その後の保護者会でも、校長は「こんな騒ぎになったことをお詫びします」と耳を疑うような発言を最初にしました。当然、「騒ぎになったことではなく、まず自殺した少年に詫びるべきでしょう!」と保護者から批判の声があがります。ようやく、保護者会にもまともな道徳観が漂うようになりました。これまで自殺事件の報告を受けても学校同様に全く重視していなかった大津市教育委員たちは、報道が過熱した当初「家庭の問題もあったでしょう」と責任逃れをしていましたが、それが世論の非難に拍車をかけました。ついに、教育長がさいたま市の高校生にハンマーで頭を殴られる事件まで発生しましたが、教育長は加害者を責めることもせず、いじめ事件に不適切な対応があった、と認め、辞任しました。国は学校や市教育委員を「当事者能力を欠く」と判断して、直接文科省の職員を派遣して、さらに警察にも積極的に関与するように言いました。それまで3度も被害届を受理していなかった滋賀県警も、学校と市教育委員に強制捜査をして、暴行、器物損壊、窃盗などの13件を立件しました。社会的制裁は法律的制裁以上に過酷で、今でもいじめに関わった少年たちの実名や顔写真は簡単にネットで調べられますし、その両親の名前や職業まで公開され、引っ越し先もネット上に載っています。

言うまでもなく、1年間もいじめ事実を認識していたのに、ろくに報道しなかったマスコミに正義の味方面をする資格はありません。マスコミに扇動された時だけ、義憤にかられる大衆は抑制されるべきです。また、ハンマーで殴る、ネット上で真偽不明な個人情報が晒されるなどの私的制裁が許されては、法治国家は成り立ちません。そんなことは私も十分承知しています。

しかし、それらを全て考慮しても、この社会的制裁には私にとって、正直、胸がすく思いでした。いじめ事件についての法的制裁は、その非道さ、その凄惨さに対して、あまりに軽すぎます。これまでのいじめをテーマにした私の記事や、いじめ事件の本を10冊以上読んだ方なら、それは納得してもらえるはずです。本来なら、いじめ事件は全て、これくらいの社会的制裁を受ける程度の罪があると私は考えています。問題なのは、マスコミで取り上げられたこの事件だけが、社会的制裁を受けていることです。だから、社会道徳的観点からいえば、いじめ被害者救済法を成立させて、これまで存在した全てのいじめ事件について、加害者たちに適切な社会的処分を行い、被害者たちに償いを行うべきだ、と私は考えています。同様の陰惨ないじめ事件、少年少女非行事件がこれまで無数に存在し、それで死亡した人たちがいること、今でも傷ついている人たちがいること、そして、そんな悲劇を生んだのはいじめを容認や黙認していた社会全体の責任であることは、最低限、認識しなければなりません。

闇に葬り去られたいじめ、非行事件の被害者たち

文科省公表のいじめ件数を見ると、いじめの定義を変えるたびに、いじめ件数が激増して、それから次のいじめ定義の変更までいじめ件数が毎年減少していくサイクルを繰り返しています。こんな文科省のいじめ件数統計があてにならないのは間違いありませんが、1994年以降については、いじめの定義変更まで、いじめ件数が減少しているのは納得できることもあります。統計的な証拠はありませんが、バブル絶頂期の1990年前後がいじめ問題、非行問題の最低最悪の時期で、それ以降、いじめ問題は少しずつ改善してきていると私は推測しているからです。これは文科省による功績だけでなく、警察による暴力団対策も影響しているのでしょう。

いじめ問題が解決に向かっている、さらにいえば「日本は世界で始めて、いじめ問題を解決できる国になるかもしれない」とまで私に思わせたのは、2012年の大津中2いじめ自殺事件です。前回の記事でも紹介した「少年リンチ殺人」(日垣隆著、新潮文庫)を読んでいる私にしてみれば、正直、この事件は大騒ぎするような問題に思えませんでした。「またか」という程度の認識しかなかったのです。しかし、世間の良心は違っていました。

2011年にいじめにより大津市で中2生徒が自殺した後、学校側はいつものように事件を隠蔽しようとしました。事件後の記者会見で校長は「いじめはなかった」と証言しています。実際は、事件前から学校側に保護者は「いじめがある」と報告していましたし、なにより生徒本人が電話で担任教師に訴えていました。事件後の生徒アンケートでも「集団リンチにあっていた」「万引きをさせられていた」「自殺の練習をさせられていた」などの証言が100以上ありました。

学校側はそれら全てを無視しています。それどころか、「いじめと認めたらマスコミで叩かれるから、認めなくてよかった。まずは内部で、いじめで亡くなったと思わないことだ」と教師同士で話し合っていたようです(「大津中2いじめ自殺事件」(共同通信社会部、PHP新書)参照)。加害者、つまり殺人犯の母親にいたっては、「アンケート内容は断片的でアテにならないものだ」と批判ビラを配布しており、保護者会で「軽々しくいじめの烙印を押されて、それで反省していないって。鬼畜なんですか、私の息子は!」と叫んだそうです。

その息子は被害者が自殺した翌日、遅刻して登校し、いじめた子たちとニヤニヤ笑い、死を悼むそぶりも見せず、被害者の机の上にゴミを置いたりして、楽しそうにトランプで遊んでいました(同書参照)。その異常な保護者会で「もちろん、アンタの息子は鬼畜だ! いや、鬼畜以下だ!」と叫び返す親はいなかったようでした。それどころか、この保護者会後、「いじめ前提の指導は必要ない」「冤罪だったらどうするんや」という空気もできて、加害者の少年たちにろくな指導もしなかったそうです。加害者の少年たちは少年院に送られることもなく、警察は被害者遺族からの被害届を3度も受け取り拒否しています。

「少年リンチ殺人」(日垣隆著、新潮文庫)を読めば分かる通り、凶悪ないじめ事件、非行事件がこんな風に闇に葬り去られるのは珍しくありません。1980年~2000年代前半の間、人が死んだ事件だけでも500件はあるでしょう。そのごく一部が世間に知られているに過ぎません。その事実は、現在の30代か40代の日本人は全員死ぬまで覚えておく責任がありますし、社会道徳的観点でいえば、全員がその罪を償う責任があります。

いじめ事件、非行事件の被害者を今からでも救うべきである

大河内くん自殺事件の6年後に、またも愛知県で尋常でない恐喝事件が起きます。大河内くん自殺事件では100万円の恐喝でしたが、なんと5000万円の恐喝事件です。100万円が安く感じてしまうくらい被害額が甚大なのに、大河内くん自殺事件と比べると、5000万円恐喝事件はあまり有名ではありません。私も知ったのは事件後10年がたってからです。

この事件を題材にした「ぼくは奴隷じゃない」(中日新聞社会部編、風媒社)はぜひ読んでもらいたい本です。特に、この本に出てくる加害者の親たちの道徳観のなさ加減に心の底から憤りを感じてほしいです。そして、その親たちや加害者に同情するような文章を書く中日新聞記者たちの道徳観のなさ加減にも憤りを感じてほしいです。いえ、「感じてほしい」ではなく、人間であるなら「感じる」し、「感じなければならない」はずです。こんな親たちや、こんな記者たち、こんな凶悪な少年たちを見逃していた警察や大人たちがいるから、こんな悲惨な事件が起こったのです。このいじめ事件に加担した者たちは言うまでもなく、親たちや先生たちや警察も含めて、全員終身刑にすべきだと私は思ってしまいます。また、1千万円以上も恐喝していた暴走族のリーダーを「あれはワルでも筋の通ったワル」などと称賛し、その息子の恐喝に全く気づかなかっただけでなく、息子の悪友たちを「うちに来た時はみんないい子」と本気で言っていたバカ母を悲劇のヒロインのように書いた当時の中日新聞社会部記者たちは暴力賛成派としか考えられないので、全員最後の一人が死ぬまで、殺し合いさせてください。

あまり知られていない、いじめ事件はこれ以外にもあります。それが一番よく分かるのは「少年リンチ殺人」(日垣隆著、新潮文庫)ではないでしょうか。これはいまだにwikipediaにも載らない、とるに足らない事件かもしれませんが、その凶悪さは上記の書を読めば分かります。その残忍さを自覚していないどころか、認めようともしないバカ親たちは、息子たちの殺人事件の共犯者と考えるべきです。もしこのバカ親たちを罪に問えないのなら、更生施設に送るなどの社会的処分は最低限必要です。

「少年リンチ殺人」にある通り、1997年の1年間だけでも、のべ9637人が少年リンチ事件(障害致死、傷害事件)として検挙されています。検挙された数なので、集団暴行事件が発生しても110番されなかったら、この数に入りません。実数はこの10倍以上あったと確信します。少年リンチ事件、非行事件、いじめ事件で被害者になり、既に死んだ者や、肉体的および精神的に一生消えない傷を抱える者は、現在一体何万人いて、そのうちの何万分の一が適切な補償を受け取っているのでしょうか。原爆被害者や水俣病被害者を熱心に援助する運動は否定しませんが、場合によっては、それら以上の悲劇に見舞われた非行事件の被害者たちにも社会補償を受ける権利は間違いなくあります。被害者たちが生きているうちに、まだ人生を楽しめるうちに、できるだけ早く一人残らず調査し、加害者やその協力者を罰し、あるいは、最低でも加害者やその協力者に金銭面で償わさせて、被害者が救われるような社会制度を築くべきだと、私は本気で提案します。

いじめは絶対悪である

私が外国人に、どうして日本でいじめが社会問題となったかを説明するときに、1994年の愛知県大河内くん自殺事件を次のように語っていました。

私「いじめが日本で絶対悪と認識されるようになった事件がある。中学2年生の少年が同級生から暴力を受けて、お金まで要求されるようになった。少年はお金がないと言ったが、いじめる奴らは納得せず、親からお金を盗むように強要した。少年はこっそり親の財布からお金を盗み続け、その金額は1万ドル以上に及んだ」

外国人「1万ドル!」

私「当然、親もお金が減っていることに気づいた」

外国人「Of course!」

私「親は学校にいじめをなんとかしてくれ、と要求したが、学校側は『強要されたからといって、お金を盗んだのはお前だから、お前の責任だ』と、いじめを受けている子に反省文を書かせた。親にも助けてもらえない、先生にも助けてもらえない、自分でもどうしようもできない。少年は14才で自殺した」

外国人は、これで絶句します。

大河内くん自殺事件は、当時、中高生以上の年齢だったなら、今でも覚えている人は多いでしょう。100万円という金額が注目されて、私もそれを特に記憶していましたが、こちらのHPにあるように、いじめの実情は金額以上に悲惨です。

この事件がマスコミで騒がれたので、文部省もようやく動きました。まず、いじめの定義が次のように変わりました。

①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。なお、個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと

この赤文字部分は画期的だったと私は思っています。

今だったら信じられない人もいるでしょうが、大河内くん自殺事件までは、いじめが起きた時、いじめる側といじめられる側を対等に並べて判断していました。

「そもそも、なんでいじめが起きたんですか?」「なるほど。客観的にいって、いじめられた生徒はそんな欠点がありますね」「いじめられる側にも問題があったのではないでしょうか

こんな議論が保護者たちの間で普通に起こっていました。当時の日本人の道徳観は、その程度でした。ご存知のように、今でもその程度の道徳観しか持っていない日本人は腐るほどいます。

しかし、大河内くん自殺事件を考察して、そんな道徳観ではいじめ問題はいつまでも解決できない、と文部省も気づきました。1994年12月16日の文部省通知で「弱い者をいじめることは人間として絶対に許されない」と強い言葉で否定しました。そこまで断言していいのか、という疑問は今でも持つ人がいますが、実際のいじめ事件の悲惨さを調べ続けた人なら、「人間として絶対に許されない」ことは分かるはずです。もしそれでも納得できない人たちは、基本的人権を尊重する日本国憲法や世界人権宣言の範囲外にいるので、どこかの孤島にでも一人残らず集め、心ゆくまで殺し合いさせてください。冗談ではなく、本気で、私はそう主張します。

いじめ問題の始まり

いじめがマスコミに注目されたのは、1986年の「葬式ごっこ事件」が最初になるでしょう。wikipediaにもある通り、担任教師が、後に自殺する少年の葬式ごっこの寄せ書きを添えていて、自殺後、その行為を生徒たちに口止めするように言っている上、聞き取り調査で自殺した生徒に原因があるかのような発言までしています。精神的ないじめでなく、自殺した生徒に日常的に暴行を犯していた者は複数いて、その容疑で16名が書類送検されたものの、そのうち処分が下された者はたった2名です。しかもその2名も少年院に入ってすらおらず、保護観察されただけです。この事件は今から判定すればいじめ以外のなにものでもないのですが、裁判では最後までいじめと判定されませんでした。こちらのHPにいじめの実情が書かれていますが、それを読んで、まだ加害者の処分や裁判の判決が妥当だと思う人がいたら、その人は人間と絶対に認めるべきではありません。

マスコミがいじめ事件に注目したのは1986年からですが、それ以前より同様のいじめ自殺は全国で多発していました。この事件だけが注目された理由は不明ながら、その前年の1985年に文部省が始めて、いじめ調査したことは多かれ少なかれ影響しているでしょう。当時の1986年、文部省の定めたいじめの定義は次のようになります。

①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているものであって、『学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの』。なお、起こった場所は学校の内外を問わないものとする。

『学校としてその事実を確認しているもの』はなんの目的で挿入したのでしょうか。社会道徳的に考えれば不要であることは明確です。学校としてその事実を確認していなければいじめにならない、事件にならない、とすれば、当然、いじめの事実を学校として積極的に確認しようとするわけがありません。いじめの事実を確認して学校側がなんの得もないこと、だから学校側がいじめ事件を隠蔽しようとすることを、この条項を定めた「専門家たち」は想像できなかったようです。

国家として文部省がいじめ問題に取り組んだことで、いじめ認知件数は1986年から1993年まで着実に減少していきました(文科省資料参照)……という幻想を文部省官僚は当時本気で信じていたのでしょうか。この時代はバブル絶頂期であり、いじめ問題は最低最悪の状況だったと私は確信しています。東京でコンクリート詰め殺人事件、愛知県で大高緑地公園アベック殺人事件が起こった時代です。日本の少年犯罪史上、これより非道な犯罪を知っている人がいますか? 日本のいじめ問題、少年少女非行問題が最低最悪になっていたのに、文部省は見て見ぬふりをしていたのです。見て見ぬふりをしていたのは当時の文部省だけでなく、当時の中高生、当時の大人、当時の警察たちもそうです。上記の二つの事件は極悪としか言いようのない事件ですが、これは決して例外的な事件ではなく、非道な少年犯罪は当時の日本で蔓延していました。当時の中高生、現在の30代から40代の世代は、それを知らなかった、とは言わせません。この時代、極悪非道な少年犯罪が日常茶飯事だった事実を「いじめ事件、非行事件の被害者を今からでも救うべきである」の記事で指摘します。

いじめ問題を振り返る

いじめ問題が日本で生じたのは日本のバルブ経済期と重なります。バブル期に日本人は多くの違法あるいは合法の罪を犯していますが、その中でも、いじめ問題は最低最悪の罪だと私は考えています。

文科省調査のいじめ件数は全くあてにならないため私の推測になりますが、1980年代から2000年代前半までが、いじめ問題の最悪の期間でしょう。この時代に中高生だった世代、今の30才前後から50代前半の世代は倫理的にも性格的にも思想的にも最悪のいじめ問題、少年少女非行問題を間近に見ていたはずです。特に、この世代で公立中学や偏差値の低い公立高校に通っていた人は、いじめられた者か、いじめていた者か、いじめを傍観していた者のどれかに入るはずなのに、ほとんどの人はそれを忘れたかのように今も生きています。

話は大きくなりますが、幕末維新外交、自由民権運動の失敗、日清日露戦争シベリア出兵、満州事変、日中戦争、第二次大戦、大規模公害、全共闘運動、バブル狂乱など、明治維新以降、日本は過去の失敗を、なに一つ、国民全体でよりよい未来に繋がる総括をしていません。第二次大戦を除けば、総括しようともしていません。いじめ問題もその一つです。問題の期間が終了した、いつの間にか問題がなくなったからといって、過去から学ばないのは愚か者です。上記の明治維新以降の日本の問題について、私は直面した世代に入らないのですが、いじめ問題は実際に遭遇しています。私は現在30代で、いじめられた者に分類されるからです。中学生の頃、私をいじめていた者が少年院に送られなければ、私はとっくの昔に自殺していたと確信します。

一つの大きな問題を深く広く考察することで、それに関する他の多くの問題も見えてきます。私自身がまずは解決すべき世代に入っていることもあり、次の記事からいじめ問題について振り返ります。

学歴社会嫌いな私が学歴好きになった理由

私は二度大学を卒業していますが、一度目の大学受験では、二流大学に合格したのに、わざわざ偏差値の低い三流大学に進学しました。

「人を学歴で評価すべきではない。その人の真の知性、内面で評価するべきである」

そんな理念を元にした価値のある決断だと、当時は信じ切っていました。全くもって若気の至りで、この決断が私の人生を大きく狂わせることになります。三流大学に進学したのに、二流大学並みの就職や待遇を得たいのなら、通常の二流大学生以上に、能力と意思が高くなければいけません。自惚れていた私はそのくらいの能力と意思はある、特に意思は必ずある、と思い込んでいました。現実は、私にその能力と意思はなく、特に意思は完全に挫かれました。

精神を病んだ私は新卒一括採用を完全に見逃して、「シューカツ」が「就職活動」の略であることすら知らないまま卒業しました。そんな私が気づいたら、ブラック企業で何年も働いていたのは不思議でないでしょう。自分のバカさ加減に呆れます。

ただし、振り返れば後悔しかない若者時代を送ったからこそ、見えてきたこともあります。学歴の高い人は学歴が低い人より、知性が高く、また性格がよく、さらに内面が優れていることです。もちろん例外は多くありますが、概ね、学歴、知性、性格、内面には正の相関関係があるように思います。特に、私のように知性を重視する人間には、低学歴の人との交流が相当なストレスになることは間違いありません。後にこんなブログを作る奴なので、高校卒業するまでには、それくらい分かっておくべきだったのです。

学歴社会が定着し、その採用方針で日本が繁栄してきたのですから、学歴で人を評価する制度はある程度有効だった、と今の私は確信しています。西洋では学歴を評価基準にする必要は全くないのかもしれませんが、日本だったら学歴を評価基準にする社会的妥当性はあったはずです。

ただし、日本では若い人ほど学歴で人を評価しなくなってきているように思います。これは採用活動だけでなく、世間一般の評価基準でもそうです。若い世代は学歴以外のなにで人を評価するようになったかというと、コミュニケーション能力です。このコミュニケーション能力は、偏差値で客観的に比較できる学歴よりも、遥かに恣意的な判断で決まります。日本でのコミュニケーション能力とは、話し方がうまくて、礼儀作法が身についている、といったものでしょう。私に言わせれば、それは外見の一部であり、見せかけです。知性につながる学歴を重視する方が社会道徳的にまだ適切のはずです。学歴に対してコミュニケーション能力の重要性が高まったことは、日本社会が失われた20年から脱却できない原因の一つだ、と私は考えています。

「人を学歴で評価すべきではない。真の知性や内面で評価するべきである」という理念を今でも私は持っています。しかし、真の知性や内面を判断できる日本人は極めて稀でしょう。それなら、コミュニケーション能力より学歴を重視した方が日本社会としてマシだ、と私は考えるようになっています。

観念論でなく教育内容に注目すべきである

日本で「基礎学力教育」と「個性尊重教育」のどちらを重視すべきか、という意味のあまりない議論は耐えることがありません。一長一短であり、どちらも極端すぎるのはいけない、などの当たり前の結論にしか到達しないでしょう。そんな抽象的な観念論よりも、現場の教育をより重視すべきです。

日本にも教育についての本は山のようにあります。しかし、私が図書館でいくら調べても、国際的なカリキュラム(教える内容)を詳細に調査し、比較した本を見つけられませんでした。「日本では小2の2学期に九九を習うが、カナダでは九九に相当する内容は〇年で教えるが完璧に覚えさせるのではなく通年での電卓教育に力に入れていて、イギリスでは地区によって違うが平均は×年で、韓国では……」といった内容の本がないのです。私は学者でもなく教育学の専門教育すら受けていないので、単に文献検索する能力がなかっただけかもしれません。国際教育内容を比較した本が日本にあるのなら、ぜひ下のコメント欄に書いて教えていただけると助かります。ただ、もしそんな本が本当にないに等しい状況なら、日本は具体的なカリキュラム(なにを教えるか)について国際比較をろくにしないで、現場の教育の役に立たない観念論ばかりしていたことになるでしょう。

教育内容の違いは、極めて重要です。今より1世代以上前なら、有名中学、有名高校に進学するためには、塾に通うことが必要でした。私は大学に入ってから、ある進学塾のテキストを見て、その内容の素晴らしさに仰天しました。「有名中学、有名高校の入試では、学校に普通に通っていただけでは、まず解けない問題ばかり出していたのか。それを理解できるように、塾ではこんなに体系的な教育が行われているわけだ。入学時にそれほど差がついているなら、有名私立高校生に、公立高校生が負けるのも道理だ」と、中学、高校と一度も塾に通わず、三流大学に入った私は感じました。

話は飛躍しますが、私が最もなりたい職業は国際教育の研究者です。世界中の教育内容、教育方法を調べ尽くして、統計的に最も効果的な教育内容、教育方法を追い求め、未来の世界を担う子どもたちに科学的に求めた最適な教育を提供することです。残念ながら、他の多くの人と同様、私にはなりたい仕事に就く能力と意思力と幸運に恵まれなかったので、違う仕事をしていますが、私を理解してくれる結婚相手と数名の子どもを養うだけの十分な給与があるなら、現状より給与が低くても全く構わないので、国際教育の研究をしたいと今でも本気で思っています。

保証人制度をなくした場合の金利上昇はいくらなのか

日本社会に非効率な制度は多くありますが、人の流動性を妨げる点で、保証人が異常に浸透した制度は筆頭に挙げられるでしょう。借金をするとき、引っ越しをするとき、入学するとき、入社するときなど、ありとあらゆるときに保証人が必要です。

日本人ほど真面目に借金を返す国民が他にいるのでしょうか。保証人の必要性が外国と比べて少ないはずなのに、そういう習慣だからと、保証人文化が社会に根付きすぎているように思います。この保証人社会のため、引っ越しができなかったり、奨学金が得られなかったり、車や家のローンが組めなかったり、進学や就職できなかったりしたケースは、どれくらいあったか分かりません。ほぼ全ての日本に住む人にとって面倒この上ない制度で、労力的にも、経済的にも、非効率でしょう。

こんなことを書くと、「貸し渋りが起こって、返って借主の不利になり、経済が停滞する」と主張する人が必ず現れます。それでは科学的に、統計的に判断しましょう。

保証人がいないための貸し倒れ総額を出してください。保証人がいても貸し倒れになった総額も出してください。保証人がいても貸し倒れになったのなら、回収金額にもよりますが、保証人に請求した労力と人件費が無駄ですし、保証人まで破産させたため、人材損失は単純計算で2倍、あるいは3倍にもなったりします。それらの統計数値はすぐに求められるはずで、それと貸出総額から、保証人制度を失くした場合に貸出金利をどれくらい上昇させればいいかは、簡単に求められるはずです。この金利上昇数値と、保証人制度が社会に与える経済的悪影響を考えれば、どうするべきか、答えはすぐに導かれるに違いありません。

借金をすぐにチェックできる信用情報調査システムは日本に普及しています。高額な住宅ローンになると、本人の給与や貯金が調べられます。そこまでしていて、まだ保証人という他人を巻き込まないと不安なのでしょうか。そうではない、と私は考えています。単に習慣だから、なんとなく続けているだけのはずです。貸す側だって保証人を探して、他人の借金の肩代わりをさせる、なんて気の滅入る仕事をするより、貸出金利を上昇させた方が楽に違いありません。理性的に考えて、こんな非効率な伝統は即刻止めましょう。

2015年に連帯保証人の民法改正がようやく行われましたが、この程度の改革では全くもって不十分です。着実な雇用と豊かな親戚に恵まれたエリートたちは、この保証人社会が人の流動性をいかに妨げているかにピンと来ないのでしょう。しかし、上の数値を示して、保証人制度の廃止に経済的なメリットがあると分かれば、エリート連中でも改革に邁進するはずです。

日本にはどう考えても非効率な事務処理が無数に存在し続けています。その中でも、この保証人制度の浸透は日本社会を停滞させている象徴的な存在でしょう。多くの国民も毎度の面倒な保証人手続きにはうんざりしているはずです。国民もマスコミも、保証人制度の廃止を今の100倍は叫んでもらいたいです。

日本が国債デフォルトする前に金銭取引を完全公開しておくべき理由

異次元緩和も国債消化には無力に終わりそうなので、日本政府が莫大な国債を本気で消化しようとして、1946年以来の預金封鎖をする可能性は十分あるでしょう。悪夢のように膨張した国債を消化させるためには、預金封鎖、新通貨切替、急激なインフレなどの極端な方法をとる他ないのかもしれません。

ここで歴史を振り返ります。1946年当時も、現在のように国債は返却不能なまでに膨れ上がっており、政府は旧円から新円に切替えました。どの国民も銀行に預けた旧円を、生活に必要な金額だけ新円として毎日一定額引き出せましたが、新円として引き出せる日数には限りがあります。大量の旧円を預金していた者は期日までに全額を新円として引き出せません。全額引き出せないほどお金を持っている者は、財産税として政府に徴収されたのです。皆が悔しかったでしょうが、皆が同じ条件で損をしているので、金持ちは恵まれていた分だけ耐えるべきと我慢したのでしょう。

しかし、これには抜け道がありました。「金融の世界史」(板谷敏彦著、新潮選書)によると、複数の銀行に口座を持っていれば、簡単に毎日の引き出し金額を複数倍にできたようです。いくらなんでも当時の多くの国民がこんな見えすいた抜け道に気づかなかったとは信じ難いのですが、他にも単純な抜け道が上記の書で紹介されています。旧円で株や土地を買って、新円で売る方法です。まだ株式投資や土地投資が一般的でなかったせいか、このマネーロンダリング方法に気づかなかった国民は多かったようです。調べれば、さらに複雑な抜け道を通った金持ちはいたことでしょう。第二次大戦時、日本のために大量の国債を購入していた勤勉な国民が国家債務のツケを払わされる一方で、一部の狡猾なお金持ちが新円の札束で贅沢三昧しいていたそうです。

今後、日本が国債消化のために預金封鎖をすれば、ほぼ全てのお金持ちが抜け道を探そうとします。上記のような単純な抜け道はまず通用しないでしょうが、複雑すぎて規制できなかった抜け道を通る者は必ず出てくるはずです。その不公平を解決する最も効果的な方法は、全ての金銭取引をネット上で公開しておくことです。法律を何重に張り巡らしても、抜け道を全てふさぐのは不可能です。金銭取引を完全公開していたら、公序良俗に反する抜け道と分かれば、そこを通った者の金銭取引を後からでも無効にできます。抜け道をくぐっても無駄と分かれば、国民は複雑な抜け道を探すための多大な努力をしなくて済みます。

なお、当然ながらマネーロンダリングと合法的な金銭取引の線引きで判定が微妙なものは出てくるはずです。それについては公序良俗に反するかどうかで、最終的に裁判で決めることになります。公序良俗はあいまいな概念なので、それをある程度確定するために、今から「この莫大な国債のツケを本来誰が払うべきなのか」について考えておくべきでしょう。私は「お金持ちの高齢者たちが国債のツケを払うべきである」と考えていますが、その根拠についてはこれからの記事で示していくつもりです。

ポピュリスト支持者の本当の敵であるグローバリズムの弊害の解決方法

21世紀の現在、資本主義経済は地球規模で急速に浸透しており、世界中で貧困層が急激に富を得ています。発展途上国から安価な商品が入ってくることで、相対的に賃金の高い国の人たちは職を失っています。このため、多くの先進国で外国人排斥を唱えるポピュリスト政治家が台頭し、問題になっています。

私が指摘するまでもないでしょうが、ポピュリスト支持者は明らかに敵を間違っています。国内の外国人を排斥したところで、安い外国商品が入ってくれば彼らの仕事は脅かされますし、安い外国商品の輸入規制をしても、国内の消費者が高い商品を買うだけです。彼らの本当の敵は、グローバリズム経済によって莫大な富を理不尽に蓄積しているごく一部の富裕層でしょう。敵を正しく認識できないため、資本主義の権化であるトランプがグローバリズムを批判して大統領に選ばれる、なんて喜劇のような事実が生まれています。

2016年にパナマ文書が公開され、世界中の上流階級の人たちが事実上の脱税をしている証拠が出てきました。本来なら最も多く税を納めるべき上流階級が脱税しているなど言語道断なのですが、「タックス・ヘイブン」(志賀櫻著、岩波新書)を読めば分かる通り、こんな不正がまかり通っていることは知識人なら昔から知っていることでした。

上記の書にあるように、リーマンショックの反省から、この最悪と言っていい不正の対策は少しずつ進んでいるようです。世界中の先進国の中間層が、それこそポピュリスト政治家を支持した熱烈さでタックス・ヘイブンを批判すれば、来年にでもこの問題は解決するでしょう。しかし、「共産主義が失敗した思想的理由」にも書いた過ち、弱い者たちがさらに弱い者をいじめ、強者になびいてしまう過ちをいまだ人類は犯しているようです。戦争と並んで、現代社会のバカの極みです。

この問題を解決する最も単純な方法は、世界中のあらゆる金銭取引を1セントに至るまで、ネット上に公開することです。これは「日本が世界最高のAI国家になる方法」で私が述べた方法と同じです。簡単ではありませんが、この金銭取引公開はいずれ必ず実現すると私は予想します。100年後の人たちが現在を振り返ると、タックス・ヘイブンでのあからさまな不正がこんなコンピュータ時代にまで蔓延している現象が信じられないはずです。

医療でも正しい診断ができれば、8割程度問題は解決したようなものです。同様に金銭取引を完全公開できれば、資本主義の宿命とも言える貧富の格差問題は8割程度解決するでしょう。

バブル期日本の長所

国家の富は国民の道徳と教養によって決まる」との考えを持っているため、そう思ってしまう側面はあるでしょうが、世界で日本の存在感が最も大きかったバブル期(世界のGDPに対する日本のGDP比が最も高かった時代と一致しますが)、日本は相対的に他の先進国より優れていた面は大きかったと考えています。

その頃、日本は世界で唯一成功した共産主義国と言われていました。その理由として、日本の貧富の格差が他国よりも極めて小さかったことがあります。

日本のバブル期の映画に「ウォール街」がありますが、その作品でアカデミー賞を受賞したマイケル・ダグラスは「アメリカでは上位1%がこの国の富の50%を所有する。その3分の2は相続によるもの。金目的で結婚した売女やバカ息子どもがその金で悠々と暮らしている。アメリカ国民の半分はほとんど持っていないか、なにも持っていないかのどちらかだ」というセリフを吐きます。このブラックジョークは明らかに誇張されていますが、アメリカの欠点を赤裸々に表していると思います。

社会道徳的な観点からすれば、同じ人間なのに、ある人が他の人より100倍以上も価値があるなんてことはありえません。たとえば、エジソンがいなかったとしても、100%間違いなく、他の誰かが電球や蓄音機を発明しました。ビル・ゲイツがいなかったとしても、他の誰かがパソコンを絶対に普及させています。両者とも、たまたま先導者になれた幸運に恵まれただけです。最下層の国民の100倍以上の収入を与える必要はないですし、そうすべきでもありません。

しかし、資本主義社会でなんの規制もないと、そんな「すべきでないこと」が実現してしまいます。その資本主義最大の矛盾を解消するために、共産主義が生まれたのでしょうが、結果として全て失敗しました。他の多くの資本主義諸国もこの矛盾を解決できていません。アメリカはもちろんヨーロッパでも、世界的大企業の社長になると何十億以上もの年収を得ていたりします。

一方、日本だとトヨタ自動車の社長でさえ現在年収3億円5千万程度のようです。バブル期だと、もっと低かったでしょう。資本主義国の宿命のような貧富の格差を日本だけは克服できていたようです。さらに、どんな仕事でも収入が同じという理不尽なことにもならず、仕事ごとに適切な報酬は支払われます。「極端に貧しい者もいないし、極端に豊かな者もいない。皆が能力に応じて働き、仕事の業績は適切に評価される」という理想郷にバブル期の日本は世界中のどの国よりも近づいていたのです。これを日本はもっと誇っていいはずです。

周知のように、土地バブルの発生や無駄な財政投資や無意味な年功序列など、バブル期の日本に大きな社会的欠陥があったのも事実です。だからといって、バブル期の日本でほぼ実現できていた「極端に貧しい者もいないし、極端に豊かな者もいない」社会まで放棄しなくても、現状の停滞期から脱する方法はあると考えています。むしろ、他の資本主義国が実現できなかった「貧富の理不尽な格差が少ない」社会を手放したら、皆が幸せになれる理想郷から遠ざかると確信します。

共産主義が失敗した思想的理由

共産主義が失敗した一番の理由は計画経済の非効率性にあったと私は確信しています。ただし、他にも理由はいろいろあげられるでしょう。思想的な側面でいえば、本来利益を受けるはずの下層大衆が利益を受けていると理解できなかったことにある、と私は考えています。世界中どこでも、過去から(少なくとも)現在まで、下層大衆ほど保守的なのです。先進的な共産主義の理念に共感したのは、本来利益を失うはずのエリート大衆ばかりでした。これは明らかに矛盾しています。どうしてこんな矛盾が発生するのか私には分かりませんが、世の中はそんな風にできているようです。

もちろん、日本にもそれは当てはまります。先進国に仲間入りをとっくの昔に果たしたはずなのに、日本人は時代遅れな階層社会が大好きなように私は感じています。

私は以前、チーム医療勉強会を独自に設立して、医師を頂点とする従来の医療を排して、各職種が平等にそれぞれの専門能力を活かした医療(チーム医療)を目指したのですが、それに最も反対したのが本来利益を受けるはずの看護師たちでした。私のブログを読めば分かる通り、私は看護師にいい印象を持っていないのですが、カナダで会った留学中の日本人看護師たちの性格の悪さとチーム医療推進運動の失敗経験は大きく影響しています。

言葉は性格である

「英語で話すと、日本語で話すより、言い方が率直になる」

そんなことを感じる人は多くいます。私もその一人です。私はこの現象を「言語によって性格が変わる」と表現しています。

私は日本語を母語としてない300名以上の外国人と日本語で話しています。そこでよく感じることは、丁寧な人は自然と敬語の上手な日本語を使っていて、率直な人は率直な日本語を使っていて、失礼な人は失礼な日本語を使っていることです。私の経験からいえば、それは母語がなんであっても変わりません。もともとの性格がどうしても日本語の会話にも出てしまうようです。ただし、上記のように、ある人が日本語で話すときと、母語で話すときでは、印象が大きく変わってくることはあるでしょう。

書くと同じ文字になったとしても、話し方によって印象は大きく変わります。実際、敬語を使っているのに嫌味に感じる人や、敬語を使っていないのに優しいと感じる人は、誰の周りにもいるはずです。だから、「話し方」も含めて、私は「言葉」であり「性格」だと考えています。

一般に、「性格」という単語は、道徳観や世界観などの「内面」の意味も含んでいると思いますが、私は分けて使っています。私のブログでの「性格」は話し方や行儀作法などを指し、人生観や知性や見解などの「内面」の意味は含んでいません。内面が性格に現れる部分もあるでしょうが、内面がいいのに性格が悪い人、あるいは、内面が悪いのに性格のいい人は間違いなくいるので、両者は明確に分別すべきと考えるからです。

中国人とつきあえない日本人がインド人とつきあえるのか

2000年頃には、いずれインドが人口で中国を追い抜き、中国同様に急激な経済成長を遂げて、21世紀中にアメリカを経済力で上回る大国になることを、私は知っていたように思います。1990年代には「21世紀は中国の時代だ。この波に乗り遅れるな!」という記事をよく読んだ記憶がありますし、今でも中国語の重要性を述べる記事はよく見かけますが、「21世紀はインドも経済大国になる。今から戦略的に投資しておくべきだ!」という記事はあまり見かけないように私は感じています。その大きな理由の一つは、日本人にとって、インドは中国より地理的にも心理的にも遠い国だからでしょう。

深夜特急」(沢木耕太郎著、新潮文庫)の影響もあり、私は10年間くらい最も行きたい外国がインドで、最初に選んだ外国旅行は当然のようにインドでした。その後、中国にも長期滞在した経験からいえば、「中国人とうまくつきえない日本人がインド人とうまくつきあえるのだろうか」との疑問はどうしても出てきます。失礼ながら、日本人は中国人を、マナーが悪い、声がデカい、不潔だ、とよく批判しますが、大変失礼ながら、インド人は中国人よりもマナーが悪く、声がデカく、不潔です。私は「中国の実態は誰も知らない」と書きましたが、インドの実態は中国の実態よりも遥かに混沌としています。中国人には常識が通じないと不平を言う日本人はぜひインド人と深く交流したり、インドに旅行したり、インドに住んでみてください。よほど変わった日本人でない限り、中国はインドよりも日本の常識がずっと通用すると感じるはずです。

21世紀にインドがアメリカ以上の経済大国になるので、日本は嫌でもインドの経済力の影響を受けることになります。あまりいい表現ではありませんが、その時になれば「インドと比べれば中国は天国だった」と感じる日本人が激増することでしょう。中国の次はインドが台頭すると分かりきっているので、今のうちに、まだしも交流の容易な中国人とは仲良くなっておくべきだと思います。