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楠木正成神話の批判

楠木正成と聞いて、南北朝時代の武将と正しく答えられる日本人は現在、半数くらいではないでしょうか。歴史上の人物であることは分かったとしても、いつの時代の人物かはよく分からない人も珍しくないはずです。

南北朝時代は、源平合戦、戦国時代と同じく、日本各地で大小の合戦が行われた時代ですが、その三つの中で注目度は最も低いでしょう。小説や映像ドラマなど各種フィクションで取り扱われる量でいっても、源平合戦は戦国時代の10分の1程度で、南北朝時代源平合戦の10分の1程度ではないでしょうか。

私も楠木正成についてよく知るようになったのは20代も半ばになって、太平記の解説本などを読んでからです。そこでまず驚いたのは、楠木正成が日本史上で他に例がないほど有能な人物と書かれていることです。歴史上の人気者といえば、織田信長坂本龍馬などがいますが、それらの実像がフィクションと異なることは常識だと思います。しかし、楠木正成はフィクションで英雄であるだけでなく、実像も、つまり史実でも智・仁・勇の三徳兼備の日本史上最高の武将となっています。これは楠木正成神話を創設したと言える太平記の表現ですが、現在のwikipediaにあるように、古今軍理問答は源義朝源義経武田信玄上杉謙信などを差し置き、楠木正成を日本開闢以来の名将としていますし、垂加神道創始者である江戸初期の山崎闇斎楠木正成が日本最高の名将であることを前提としています。その最大の理由は、南朝寄りの太平記はもちろん、北朝寄りの梅松論でも楠木正成は賞賛されているからです。

軍事的な天才といえば、他に源平合戦源義経がいます。しかし、源義経の話は一ノ谷の戦いの逆落としといい、屋島の戦いの奇襲といい、壇ノ浦の戦いの八艘飛びといい、普通に考えて、嘘くさいです。その程度の少数の兵の活躍で、勝敗の大勢が決まるとも思えません。もし本当に大勢が決まったのなら、源平合戦の時代の合戦が集団戦ではなく、個人戦だったからでしょう。なんにせよ、源義経個人の戦闘能力は高かったのかもしれませんが、用兵能力がそれほど高かったとは思えません。また、史実として、源義経は兄の頼朝ほどの政治力はなく、日本中の武士を味方にする立場も能力もなく、後白河法皇に利用される致命的な失敗を犯しています。

一方、楠木正成は現在のwikipediaで「史実では刀を振るえば電撃戦を得意とし六波羅探題を震撼させた猛将であり(『楠木合戦注文』『道平公記』)、築城・籠城技術を発展させ軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦を戦に導入した革新的な軍事思想家であり(楠木流軍学の祖)、そして畿内にいながらにして日本列島の戦乱全体を俯瞰・左右した不世出の戦略家だった」とされ、「2000年前後以降は、何か一つの側面に縛られるような人間ではなく、武将・官僚・商人など、多面的な顔と才能を持つ人物であったことが明らかになってきている」と最大級の賛辞を書かれています。ここまで激賞されている日本史の人物はwikipediaで存在しないでしょう。まさに日本史上最高の武将です。

しかし、当然のことながら、欠点のない人間などいませんし、失敗しない人間もいません。端的にいえば、欠点のない人、失敗しない人と史実に残っているなら、その史実は嘘です。もっとも、史実だけに注目しても、楠木正成の欠点あるいは失敗を見つけられます。

第一に、楠木正成が味方した後醍醐天皇南朝)は史実として足利尊氏北朝)に負けています。楠木正成が本当に「日本列島の戦乱全体を俯瞰・左右した不世出の戦略家」なら、後醍醐天皇が勝つように補佐すべきでした。

また、太平記で藤島の戦いでの新田義貞の逝去を「犬死」とこき下ろしているのに、湊川の戦いでの楠木正成の逝去は「七生報国」の忠臣の行動だとされているのは、あまりに理不尽です。新田義貞後醍醐天皇を助けるために恥を忍んでも生き逃れるべきだったのなら、楠木正成だって湊川の戦いで命を落とすべきではなかったはずです。いえ、命を落とさないだけでなく、楠木正成が本当に「軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦を戦に導入した革新的な軍事思想家」だったなら、湊川の戦いで勝ってもよかったはずです。しかし、明らかな創作である「桜井の別れ」のせいか、過去から現在まで、湊川の戦いでの楠木正成の死に批判はあまりありません。

私がこのブログで楠木正成を批判したくなったのは、ノンフィクション、フィクション問わず、楠木正成は完全無欠の人物として賞賛されているからです。ネットを含めても、楠木正成の批判は一切見たことがありません。しかし、繰り返しになりますが、完全無欠の人なんてこの世に存在しません。

戦前教育で「桜井の別れ」は国語・修身・国史の教科書に必ず載っていた逸話であり、楠木正成は忠君の鑑とされて政治に利用されていました。戦後になり「桜井の別れ」を知る日本人は激減しましたが、楠木正成が完全無欠の天才との神話はまだ残っているようです。そんな神話が残っているなら、今後も楠木正成が政治や宗教に利用される危険性はあるので、楠木正成は失敗もしたし、欠点もあることくらいは日本人なら知っておくべきでしょう。

なお、私が楠木正成について最も書きたい内容は次の記事になります。