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楠木正成忠君神話の矛盾を気にしない日本人

もう20年くらい前、皇居前広場を散歩していると、立派な武士の銅像が目に入りました。誰かと思って見てみたら、楠木正成だったので、なんとも言えない違和感に襲われました。現天皇北朝の子孫なのに、南朝に味方した楠木正成が、現在の皇居前広場に唯一の武士の銅像として立っているのです。私が違和感を持ったのは矛盾そのものよりも、この矛盾に多くの日本人が疑問を持っていないことにありました。

私が楠木正成について感じる最大の疑問です。楠木正成は忠君、つまり天皇への忠誠心を第一とした武士にどうしてなるのでしょうか。楠木正成は現天皇家を否定しようとした人物です。実際、死後200年くらいは天皇家の敵、朝敵とされていました。1559年に朝敵ではなくなったといっても「先祖である朝敵・正成の非を子孫が深く悔いたから」許されたという形式になっており、楠木正成に非があるとする汚名の返上にまでは至っていません。太平記には楠木正成は「7回生まれ変わっても人間として朝敵と戦いたい」と言ったとありますが、現天皇家の立場から考えれば、これは噴飯ものでしょう。楠木正成が朝敵と戦ったのではなく、その正反対で、楠木正成こそ現天皇家と戦った武士だからです。

それでは、なぜ楠木正成が忠君の鑑となってしまったのでしょうか。理由は単純です。Wikipediaにあるように、太平記にある「桜井の別れ」がまるで史実のように国語・修身・国史の教科書に載っていたからです。しかし、「桜井の別れ」を忠君の話として教科書に載せた人は、楠木正成が現天皇家と敵対し、現天皇家の傍系の味方であった矛盾に気づかなかったのでしょうか。また、この戦前教育を受けた多くの日本人は、その矛盾に疑問を持たなかったのでしょうか。さらに、戦前の皇国史観教育を受けなかった現在の日本人も、皇居に楠木正成銅像を見た多くの日本人も、私以外の日本人は誰一人、この矛盾に疑問を感じないのでしょうか。

楠木正成は現天皇家に敵対した歴史上の人物である。天皇家のために命を尽くした忠君の鑑となるのはおかしい」と誰も指摘しないことが、私には本当に謎です。この解釈が主流でないのなら理解できますが、この解釈が存在すらしないのは、私には理解不可能です。

日本の歴史はいつになったら神話ではなく事実に基づくのか」や「日本の歴史学会はいつになったら客観性を身に着けられるのか」や「幕末の稚拙な外交政策から日本は教訓を得ているのか」でも嘆いたことですが、日本の「史実」は本当にいいかげんです。教科書に100年以上も載っていた源頼朝足利尊氏などの肖像が実は別人であったと、21世紀になって明らかになっていますが、その理由が「家紋が違う」などという専門家なら一瞬で気づく程度のミスであるから、呆れてしまいます。

「桜井の別れ」も一読すれば史実でないこと、後からいくらでも話をおもしろおかしくできること、話を盛った可能性が高いことは、まともな知性の人なら分かります。これが歴史的事実として教科書に載っている時点で異常だと考えるべきです。それに気づかなかったとしても、「楠木正成は現天皇家の敵だったのだから、忠君の鑑にはならないのでは?」と誰も考えないのは異常です。