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日本の国粋主義の源流

尊皇攘夷」(片山杜秀著、新潮選書)を読んで、日本の国粋主義の源流の一つに徳川光圀、つまり水戸黄門がいると分かりました。

幕末に盛んになった尊皇攘夷思想は、徳川光圀が創り上げた水戸学をほぼ踏襲しています。たとえば、「楠木正成忠君神話の矛盾を気にしない日本人」にも書いたように、現代まで続く右翼(国粋主義)の南北朝時代南朝びいきや楠木正成神話は、徳川光圀から始まっています。なぜ徳川光圀南朝びいきかといえば、当時、江戸で流行っていた太平記に感動したからです。太平記が史実と限らないことは一読すれば分かるので、バカみたいにくだらない理由です。

ともかく、これで長年の謎は一つ解けました。徳川光圀南朝びいきの太平記に感動したから、光圀創設の水戸学の思想を受け継いだ幕末の尊王攘夷志士たちも現天皇家と敵対した南朝びいきになり、その志士たちが成立させた明治以降の政府も太平記最大の英雄である楠木正成を称え、皇居前にその銅像を造ったのです。

徳川光圀は、いかに日本が偉大な国であるか、いかに崇高であるかを示したいがために、水戸学を創りだしました。その根拠を、当時の最高権力者の将軍に求めず、世界史上最長の王朝である天皇家に求めました。将軍の権威は、万世一系天皇家征夷大将軍と認めているからであり、将軍は天皇家の権威の前に平伏せざるを得ないと考えました。

しかし、その理想は徳川御三家としての水戸家である現実と、どうしても矛盾が生じます。それが最もよく現れたのが、1858年、天皇が将軍を介さず、直接水戸藩に文書指示(戊午の密勅)を出した事件です。天皇が将軍(幕府)に意見を言っても、将軍が聞いてくれないから、意見を聞いてくれそうな水戸藩徳川斉昭)に直接、天皇が命令したのです。

水戸学の理論からすれば、将軍より天皇が上で、将軍が天皇の意見を聞かないのは間違いです。だから、水戸藩天皇の指示通り、将軍を諫めて、攘夷を実行すればいいはずです。しかし、現実には、戊午の密勅を受け取って、水戸藩は大混乱になります。徳川幕府があってこその水戸藩、将軍がいてこその御三家です。天皇に好かれようが嫌われようが、幕府に認められていれば水戸藩は存続できますが、その逆はありません。事実、1844年、幕府の命令で藩主の徳川斉昭でさえ引退させられ、藩主交代しています。バカみたいな話ですが、水戸学は天皇と将軍の意見が一致しない状態を想定していなかったのです。

水戸学の正統継承者である徳川斉昭や会沢正志斎などは、幕府を恐れ、戊午の密勅の返納を訴えます。しかし、後に天狗党となる一派は天皇をこの上なく敬い、戊午の密勅を言葉通りに実行すべきと訴えます。数としては返納派が多かったようですが、天狗党の連中は水戸藩内で抑えきれず、結局、幕府の最高権力者である大老井伊直弼が登場し、「安政の大獄」で密勅返納が決まります。

天狗党となる一派は井伊直弼桜田門外の変で暗殺しますが、後の天狗党の乱は幕府軍に鎮圧されます。尊皇攘夷の本家本元である水戸藩は、日本の夜明け前に、尊皇攘夷派がほぼ壊滅しており、明治政府でも重要な地位を占めることはできませんでした。

ただし、水戸学の思想は明治政府が継承します。

水戸学の正統継承者である徳川斉昭は当代随一の熱烈な攘夷論者ですが、開国に絶対反対ではありませんでした。特に黒船来航後は、鎖国の非現実性を認め、他国との交易を推奨しているほどでした。徳川斉昭は交易を活発化させ、富国強兵してから、攘夷を実行する計画を立てていたのです。

その観点からすると、富国強兵した日本がついに実行した攘夷こそが、太平洋戦争だったといえるのかもしれません。明治になって水戸藩がなくなってからも水戸学は第二次大戦までは生き残っていたと言えるでしょう。現在も国粋主義者南朝びいきは続いているので、今も水戸学は生き残っていると言えるかもしれません。

ただし、水戸学や水戸学と関連する神国日本思想の矛盾や稚拙さを指摘した知識人は明治以降、第二次大戦前までに確実にいました。しかし、現実に第二次大戦ではありとあらゆる場面で神国日本思想が利用され、特攻隊や玉砕の思想背景になっています。

戦後になり、天皇自身が神国日本思想を否定したため、水戸学および神国日本思想は下火になりますが、いまだ楠木正成銅像が皇居に建つなどの矛盾は残っています。

水戸学あるいは神国日本思想の矛盾について、次から2つの記事に書きます。