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佐世保小6女児同級生殺害事件の犯人は発達障害なのか

犯人の少女は学校で友だちが何名もいて、先生にも暗いという印象を与えず、家庭内でおとなしく、複数の交換日記のグループに入っていました。この少女が社会的なコミュニケーション能力に問題のある発達障害なら、発達障害でない人の方が少数派になるでしょう。もし半数かそれ以上の人が発達障害なら、それは障害と呼ぶべきなのでしょうか。

ただし、犯人の少女の倫理観におかしなところはあります。審判の場で、犯人の少女は繰り返し反省や謝罪の言葉を促されますが、その呼びかけに応じませんでした。審判で「私にはまだ、あなたの心が見えない」と若い女性調査官が涙を流しても、犯人少女はときにはふてくされたような表情をうかべたようです。犯人少女に「遺族への手紙を書くように」と宿題が出されたものの、その文面に遺族への謝罪の言葉はどこにもありませんでした。家裁は、被害者や遺族に詫びる気持ちをせめて形だけでもくみとるつもりでしたが、それでも犯人少女は謝罪しません。警察の任意の事情聴取でも、犯人の娘はふくれっつらをしており、呼び出された犯人の父は目を疑ったそうです。

佐世保小6女児同級生殺害事件に限らないのですが、凶悪事件の犯人の話を読んでいると、私は自分との共通点が多いことによく気づきます。「自分も一歩違えば、こんな殺人事件を起こしていた。いや、もしかしたら、これから起こすかもしれない」とは凶悪犯罪の本を読んでいると、何度も思ってしまいます。しかし、佐世保小6女児同級生殺害事件に限っていえば、事件後ですら、この犯人の娘が被害者を思いやる気持ちがないところは全く共感できませんでした。確かに、私が殺人事件を起こした後でも、殺した相手を憎み続けることはあるに違いありません。しかし、佐世保小6女児同級生殺害事件は、なんでもない「子どものケンカ」で殺しています。明らかにやりすぎであることくらい、少しでも道徳観のある者なら分かります。

犯人少女の倫理観が狂ってしまった原因は、「謝るなら、いつでもおいで」(川名荘志著、新潮文庫)を読む限り、インターネットの可能性が高いでしょう。小学5年生の冬まで続けていたバスケットボール部を退部してから、彼女は一人でインターネットの世界に没頭します。刺激の少ない山奥に暮らす小学生が、偏った情報の海にどっぷり漬かり、オカルト、ホラー、エログロのどぎつい刺激を浴び続けます。とりわけ、同級生同士が殺し合うバトル・ロワイヤルは犯人少女の大のお気に入りで、原作小説を読むだけでなく、姉のカードを使ってR15指定のビデオを借りて映画を見て、マンガ版まで愛読していました。さらには、原稿用紙10枚のバトル・ロワイヤルのパクリ小説まで自作しています。このパクリ作品内で被害者少女と同じ名前の人物が殺されており、現実の世界で被害者はバトル・ロワイヤルに酷似した方法で殺されています。事件後、犯人少女は大人でも二の足を踏むグロテスクなサイトに入り浸っていたことが判明しています。

秋葉原通り魔事件」、「土浦連続殺傷事件」同様、「佐世保小6女児同級生殺害事件」もインターネットによる悪影響が少なくありません。「宮崎勤事件」もそうですが、非現実の世界は殺人事件を起こす要因になりえます。「非現実の世界だから、なにをしてもいい」と考えるのは大きな間違いです。どんな本を読んでいるか、どんなテレビ番組を観ているかで、その人の内面がかなり分かるように、どんなビデオを見て、どんなサイトを楽しんでいるかで、その人が危険人物かどうかは、かなり分かってしまいます。もちろん、それだけで判断するのは好ましくありませんが。

佐世保小6女児同級生殺害事件はわずか半年ほどでインターネットの悪影響を大きく受け、殺人事件まで起こしてしまいました。このような悲劇を起こしたくないのなら、犯人少女の弁護士のように「一見穏やかで問題なさそうに見える、控えめすぎる子ども(犯人少女の特徴)たちへの目配りの大切さを強調しておきたい」と言うのではなく(福祉の人手や予算の面でそんなことは不可能です)、「インターネットの危険性を強調したい」と言うべきでしょう。

犯人少女が発達障害かどうかの問題に戻ります。実際に会っていないので断定まではできませんが、本を読む限りだと、誤診でしょう。事件発生まで、少女の発達に問題は全くみられないからです。事件を起こしたから発達障害になったというのは、生まれ持った性質でほぼ決まる発達障害の定義に反します。むしろ、被害者へ謝罪を全くしないことから、反社会性パーソナリティ障害の可能性が高いと私は推測します。そして、その好ましくない人格(内面)は上記のようにインターネットによって形成されてしまったのでしょう。