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教誨師

国際的な定義として、苦痛には4種類あるそうです。身体的な苦痛、精神的な苦痛、社会的な苦痛、霊的な苦痛です。身体的な苦痛と精神的な苦痛は直感的に理解できますし、社会的苦痛は貧困や差別などがあたると言われると、理解できます。しかし、霊的な苦痛というのは、いくら説明されても、私はよく分かりませんでした。医療者として上記の定義を習ってから今まで、精神的な苦痛や社会的苦痛があれば、霊的な苦痛は考慮しなくていいのではないか、という考えは消えません。

犯罪者たちの霊的苦痛を緩和するため、教誨師という仕事があります。第二次大戦の一時期に日本の教誨師が国家公務員だった時もありましたが、戦後の日本で教誨師は一銭の報酬も出ないボランティアです(ただし、交通費は出るようです)。「教誨師」(堀川恵子著、講談社)によると、現在、全国の拘置所、刑務所、少年院には約1800名の教誨師がいます。気性の荒い犯罪者たちに説教するなど楽な仕事でないはずですが、教誨師になりたいと名乗り出る宗教家は多いそうです。新興宗教も、ある程度の組織ができると必ず教誨活動への参加を申し出ます。

上記の本は、50年以上も教誨師を務めた渡邉普相(ふそう)の話をまとめたものです。著者は渡邉の言葉を引き出そうと、何度も寺に出向きました。しかし、最初の1年間は茶を飲んで、世間話をするだけで、教誨師の話題はかわされ続けました。

しかし、たまたま著者と渡邉が同じ広島出身であったことから世間話がだんだん長くなっていき、渡邉が「死刑に反対か賛成か、あなたは一度も聞きませんなあ」と言った頃から、渡邉の死後に公開することを条件に、渡邉が教誨師の仕事について語りだしたそうです。

なお、教誨師の存在が批判されるたびに持ち出される実話も、ここに書いておきます。

「自分は冤罪だからと再審を請求しようとする収容者に対しても『これは前世の因縁です。たとえ無実の罪であっても、先祖の悪行の因縁で、無実の罪で苦しむことになっている。その因縁を甘んじて受け入れることが、仏の意図に沿うことになる』と、再審の請求を思いとどまらせるような説教をする僧侶がいる。こんな世の因果をふりかざして、再審請求をさまたげる僧侶が少なくない」

この証言は、実際に再審で冤罪が確定した免田栄によるものです。ただし、免田の再審が動き出すきっかけを作ったのもまた、キリスト教教誨師であることはつけ加えておきます。

次の記事から、渡邉が実際に出会った死刑囚の話を書いていきます。