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酒鬼薔薇事件の犯人の両親の罪

酒鬼薔薇事件について書かれた多くの本に、犯人の小学校3年生時の作文「お母さんなしで生きてきた犬」と「まかいの大ま王」が出てきます。これらを読んで、精神鑑定をした医師を含めて多くの人が「母親の厳しい躾によって犯人の異常性格ができあがり、さらには異常な犯罪が生じた」と勘違いしまいた。

これを勘違いと断定できるのは、どちらも事実にもとづかず書かれたと判明していて、なにより、犯人は犯行前も犯行後も現在も母に対する強い愛情を持っているからです。酒鬼薔薇事件のどの本を読んでも、上記の空想文以外に、母の虐待の証拠は見つけられません。犯行声明文に世間が踊らされたように、小学校3年生時の犯人の作文に精神科医や世間が踊らされたので、誤解が生じたとしか思えません。

私の考える犯人の父母の罪は、むしろ犯人に対して甘すぎたことです。犯人を甘やかしすぎたことは「『少年A』この子を生んで」(「少年A」の父母著、文春文庫)で、母自身も認めています。実際、犯行後に書かれたこの本でも、しつこいくらいに「Aは根が素直で思いやりのある子と今でも思っている」と両親は書いています。そのように考えしまう理由もいちいち詳しく書いています。

どんなに性格の歪んだ人であっても、極端な話、ヤクザであっても、優しい側面はあります。しかし、子どもにはいつも笑顔だからといって、毎日脅迫行為をしているヤクザが極悪人であることは論をまたないように、一部に優しい側面があったからといって、酒鬼薔薇事件を起こした犯人が極悪人であることは間違いありません。そんな社会人として最低限身に着けるべき倫理観すら養わないまま、この両親は子育てをしていたようです。

酒鬼薔薇事件は不良文化によって起こされた」に書いたように、犯人は紛れもない不良です。犯人自身も犯人家族も、現在に至るまで犯人を不良だとは考えていないようですが、「『少年A』14歳の肖像」(高山文彦著、新潮文庫)にあるように、学校の先生たちも、近所の人たちも犯行前から犯人を不良だとみなしていました。万引きして、アルコールを飲んで、タバコを吸って、暴力事件を起こして、親が学校に何度も呼ばれているのに、自分の子を不良だと考えないなど、社会道徳に反しています。社会道徳を捨てでも、この両親は子どもの味方であり、だからこそ、子どもがあんな凶悪事件を起こしたのでしょう。

犯人の両親が不良文化を助長した大人だったことは、両親による「『少年A』この子を生んで」を読めば明らかです。父は「男の子なら中学になれば、タバコくらい吸い、酒も飲みたくなるじゃないか」と法律違反を黙認するようなことを堂々と書いています。おそらく、自分自身もそうしていたからでしょう。母も「人の目には悪ぶって見えても、中身は優しく人間味があるキャラクターが理想の息子像」「(お酒の空瓶を犯人の部屋から見つけても)男の子だから多少は仕方ないかな」と書いています。1990年代にこの感覚で子育てしていたら、高確率で子どもが不良になるのは間違いありません。Broken windows理論にあるように、小さな悪(悪ぶっている奴)を見逃していたら、大きな悪(凶悪犯罪)を生じがちになります。このような倫理観の大人が子育てしていたからこそ、この時代、中高生に不良文化が蔓延していたのです。

犯人の精神鑑定書に「酒鬼薔薇事件は犯人の非行増悪の延長線上で到達した」というようなことが書かれています。この精神鑑定書は難解な言葉ばかり並べた意味不明な悪文で、上記のように家族の愛情欠如が原因という誤解まで入っていますが、酒鬼薔薇事件が犯人の非行の増悪により生じたという意見には、私もほぼ同意します。犯人は小学5年生に祖母が死去した頃から、狂気が芽生えてきて、猫を殺すなどの行為を始めます。それから殺人事件を起こすまでの3~4年の間は、間違いなく、両親か誰かが本人を止められる時期であり、止めるべき時期でした。実際、犯人は自身の凶行について、誰かに止めてもらいたい、捕まえてもらいたいとしか思えないような行動を何度もとっています。

たとえば、土師淳くんを殺害する前日に犯人は友だちに「三匹の猫の死体を朝方、校門前に三角形にして置いたんやけど、おまえら知らんか?」と聞いていて、友だちたちは「知らん」と答えています。土師淳くんの頭部を校門前に晒す前に、猫で同様の凶行をはたらいていたようです。自己顕示欲を満たすためにやったとしても、この猫死体事件で捕まると、既遂の山下彩花さん殺人事件も発覚する恐れがあるのに、友だちに猫死体事件を白状しています。どういうわけか、校門前の猫死体事件が本当にあったかどうか、どの本でも調査されていません。

また、山下彩花さん殺人事件について、「家で酒飲んだら酔っぱらってもうて、気がついたら(犯行現場に)立っておった。あれは俺がやったんかなあ」と犯人自らが言いふらしていた友人の証言が複数あります。

さらには自身の犯行について漏らさず書いていたノートは、家の犯人の部屋の机の真ん中に堂々と置かれていたことが分かっています。

「絶歌」(元少年A著、太田出版)で告白している通り、犯人は狂気が増悪していくに従い、その狂気を発散したい欲求と、それを誰かに止めてほしい理性がせめぎ合っていました。しかし、犯罪後ですら「根はいい子」としか思えない両親は、自分の子どもがどんなに悪いことをしても、自分の子どもの味方ばかりしていました。被害者の言い分よりも、先生の言い分よりも、母は自分の子どもの言い分を信じていました。

代表的な例は犯人が中1の時、クラスメートの女子の靴を燃やして、カバンを隠した事件です。先生と双方の母子がいる前で、犯人は「先生に止めてもらわなかったら、ずっと続いていたかもしれない。止めてくれてよかった」と事もなげに言って、被害者の母を唖然とさせています。そして、被害者の母がそれ以上に驚いたのは、犯人の母が「女の子は口が達者ですからねえ」と言ったことです。犯人の母は全く反省しているようには見えず、それどころか原因をつくったのは娘さんの方でしょう、とでも言いたげな様子でした。

「『少年A』この子を生んで」にはこの事件後に、「さすがの親バカの私でも、子どもの度はずれた執念深さにショックを受けて」、犯人の脳に異常はないか病院受診した、と書いていますが、これは嘘です。上記のような態度をする母が子どもにショックを受けているはずもなく、もちろん、犯人も反省しておらず、犯人は同じ女子にさらに脅迫文を送りつけています。それで母が学校に再び呼ばれて、児童相談所へのカウンセリングを勧められたため、ようやく母は病院受診を決意しています。しかし、脳のMRIで異常なしと診断され、あろうことか、そこの藪医者は「自主性を重んじて、褒めて育てましょう」と本来するべき助言と正反対のことを言ってしまいます(母はこの通りの子育てを既にしていますし、その後もしていたので、酒鬼薔薇事件が起こっています)。これで母は心が明るくなり、学校にそのことを報告します。学校側はそれで安心したわけでなく、脳に異常がなくても、児童相談所でゆっくり時間をかけてカウンセリングを受けてもらいたかったのですが、晴ればれとした表情で話し続ける母に、それ以上は求めきれなかったそうです。もし私がこの時学校側の人間だったら、「児童相談所に行ってほしいと言ったのに、なぜ病院に行ったのか。あの子(犯人)の脳に異常があるなんて最初から思っていない。異常なのは性格の方だから、病院では治らない。学校はあの子を心配して言ったのに、母は学校からケチをつけられたと勘違いして、ウチの子どもは正常だと証明するために病院に行ったのではないか。まったく。こんな母だから、あんな子になる」と思っていたでしょう。

学校の女性教師は犯人の友だちに「あの子(犯人)は変な奴だから付き合うな」と言ったそうです。これをまた聞きした犯人は母に告げ口します(母によると、犯人が泣きながら帰ってきたそうですが、犯人は「絶歌」に泣きながら帰ったと書いていません)。社会道徳よりも子どもの味方の母はやはり学校に訪れ、強い口調で抗議します。

残念ながら、犯人と付き合い続けた「ダフネくん」は、その後、犯人に歯を折られるほどの暴行を受けているので、この時の先生の心配は的中したのです。犯人も「絶歌」で、先生の助言が正しかったことを認めています。しかし、「『少年A』この子を生んで」で、母は結果的に先生の助言が正しかったことを認めた後に、「でも当時、私は親として、どうしても許せなかったし、納得できなかったので、学校に抗議に行ってしまったのでした」と反省していないかのような文章をわざわざ書いています。

現在でも、酒鬼薔薇事件の犯人はサイコパスなので、親の前ではいい子を演じて、裏で凶行を重ねることができる、だから騙された両親に罪はない、と的はずれな見解が散見されます。上記のように、親の前ですら、犯人はいい子ではありませんでした。実際、小学校6年に万引き事件を起こした頃から、子どもが変わったこと(非行に走ったこと)は両親も酒鬼薔薇事件前から認識していました。犯人は両親を騙そうとしていたわけではなく、むしろ両親に止めてほしいかのような大胆な行動までとっていました。しかし、どこまでも犯人の味方をして、犯人の非行を一向に止めなかった両親が犯人の狂気を増幅させてしまいました。

「『少年A』この子を生んで」によると、両親もある程度、犯人の非行を叱っていたそうですが、全く効果がなかったとも正直に書いています。もし両親が本来あるべき厳しさを持って犯人に接していたら、酒鬼薔薇事件は起こらなかったでしょう。その場合、犯人と両親の壮絶な争いが生じて、犯人の殺人対象は両親になっていたかもしれませんが、「被害者たちに死んでお詫びしたい」と書いている両親にとっては、酒鬼薔薇事件を起こされるよりは、好ましかったはずです。むしろ、事件後に「被害者たちに死んでお詫びしたい」と本当に思っているのなら、なぜ事件前に「子ども殺してでも止めるべきだった」と死ぬほど後悔しないのでしょうか。あれだけの悪行を繰り返していても、「根はいい子」などと考えている両親は刑罰を科してもいい、少なくとも保護観察下に置くべきだと私は本気で考えます。

「『少年A』この子を生んで」で、両親はともに「自分たちの子育てに原因があった。今回の事件の責任は私たちにある」と認めていながら、上記のように犯人が極悪人であったことを認めておらず、「犯人は親からの愛情が足りなかった」というトンチンカンな見解に振り回されているので、「なぜあの子が事件を起こしたのか分かりません」「あの子が理解できません」と何度も嘆いています。犯罪後ですら、「子どもの根は優しい」と本気で誤解している両親が理解できるはずもありません。まずは子どもの人格がどうしようもなく悪かった、両親はその側面を見て見ぬ振りをしてきた、あるいは大して悪くないと誤解していたと認めない限り、両親はいつまでたっても子ども(犯人)を理解できないでしょう。

酒鬼薔薇事件が起きても犯人を「いい子」と考える両親は、まるで新潟少女監禁事件の犯人と母の関係のようです。もう手遅れの可能性が高く、一番マシな対策は、金輪際、犯人と両親は連絡をとらせないことではないでしょうか。

次の記事では犯行直後から現在まで犯人の親に対する最大の疑惑である「犯人の母は犯行に気づいていたのか」について書きます。