未来社会の道しるべ

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福田孝行の暴力性と女性観

前回までの記事での主張と同じですが、さらに考察します。

酒鬼薔薇事件は不良文化によって起こされた」にも書いた通り、反社会的な環境にいればいるほど、犯罪を起こしやすくなります。暴力性が高い人ほど、暴力事件を起こしやすく、歪んだ女性観を持っている人ほど強姦事件を起こしやすくなります。

これは当たり前のことなのですが、どういうわけか、裁判では本人の環境、暴力性などをほぼ無視します。もし本人がヤクザであれば、これからヤクザから抜けるかどうかの決意によって、再犯率が大きく変わることは論をまたないので、ヤクザから抜ける約束をしなければ量刑を重くするべきだと思うのですが、それが論点になっている裁判例を見た記憶がありません。

残念ながら、光市母子殺害事件も同様で、福田の暴力性の決定的な(唯一かもしれない)証拠となる動物虐待エピソードについて、判決文で全く触れられていません。裁判でそれについての議論すらされていないようで、反省の有無も問われていないようです。しかし、父からの虐待以上に、これは福田の自発的な暴力性を示すエピソードなので、裁判で反省を求めるべきですし、反省の有無によって、量刑を変えてもいいはずです。もしこれが「頭のおかしい少年ならよくやること。事件とは関係ない」と誰もが考えたのだとしたら、裁判官あるいは日本人の道徳観に私は失望します。

また、前回の記事に書いたとおり、光市母子殺害事件は福田の暴力性だけでなく、福田の歪んだ女性観によっても生じていると私は考えています。福田は自殺した母への恋慕を被害者に重ねていた、といったフロイト流の解釈を弁護側が持ち込んだため、福田の女性観については解釈が迷走しています。「なぜ僕は『悪魔』と呼ばれた少年を助けようとしたのか」(今枝仁著、扶桑社)によると、福田は母とも性行為を望んでいたようですが、それが本当かどうか、ましてそれが犯罪要因になったかどうかは、誰にも証明できないでしょう。

福田の女性観の正確な形の議論はともかく、福田の女性観が歪んでいたことは誰もが認めています。「福田君を殺して何になる」(増田美智子著、インシデンツ)に出てくる増田への福田の手紙からも、それは明らかです。今枝の本によると、福田が歪んだ女性観を持ったのは「父が母を虐待していたため」であり、まるで福田の責任ではないかのような書き方をしています。しかし、たとえ生来的なものであっても、環境によるものであっても、歪んだ女性観によって強姦したのなら、強姦者本人の責任です。歪んだ女性観によって強姦が生じたなら、どんな事情があっても、矯正しなければなりませんが、事件後、女性観に焦点をあてて矯正したとの記述は、どの本にも出てこません。増田にいたっては、福田の歪んだ女性観を「人間的な感情」だと肯定的に捉えています。福田の「真の反省」とはなんなのか、と増田は問題提起していますが、あんな女性観の歪んだ手紙を何通も受け取っておいて、また、光市母子殺害事件が強姦も含んでいることを知っておいて、福田の歪んだ女性観の矯正が必要とすら増田は気づかないので、福田の「真の反省」とはなんなのか、と悩むのは当然でしょう。

福田が自身の暴力性と女性観を矯正することが「真の反省」だと私は考えます。しかし、現状、そのどちらも矯正されたとは思えないどころか、そこが問題だとすら、福田はほとんど気づいていません。私が福田には極刑がふさわしいと思うのは、福田が「真の反省」ができていないからです。

次の記事に続きます。