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世界最高の介護制度のある日本で介護殺人が多いはずがない

「母親に、死んでほしい」(NHKスペシャル取材班著、新潮社)は、NHKの記者たちがここまで医療や介護や福祉について知識が乏しいのか、と失望してしまう本でした。この報道を観た多くの日本人も好意的な反応を示した、と書いてあります。だとしたら、日本人全体の死生観の質が低いことを示している証拠になります。

NHKの独自調査によると、2010年から2015年までの6年間で138件の介護殺人が起きたそうです。「2週間に1度介護殺人が行われています」とのナレーションがNHKスペシャル「私は家族を殺した」で流れたそうです※。

この情報だけで、まともな知性のある医療や介護職の人ならこう考えるでしょう。

「そんなに少ないわけがない」

高齢者は毎年100万人以上亡くなっています。自殺している人だけでも毎年1万人もいます。日本の殺人件数は毎年1000件程度です。それなのに、介護殺人が年間20~30件のはずがありません。死亡診断した医者が見抜けなかっただけで、実際は介護殺人であった事例はその数倍はいるに違いありません。介護しないせいで死んだ事例(消極的殺人)も含めれば、介護殺人は1千件や1万件に達するかもしれません。

前回の記事でも嘆きましたが、NHKが部署横断で取材したのに、基礎知識すら共有されていません。本では認知症と一括していますが、100人の認知症患者がいれば、100種類の認知症があるのは、医療者にとっては常識です。特に、血管性などの急性なのか、アルツハイマーやレビーのような慢性なのかの区別は重要です。急性の血管性認知症であるなら、日本だと急性期病院の後にリハビリ病院(回復期病棟)に1~3ヶ月入院できます(入院させられます)。その第一の理由は、血管性認知症の発症直後に効果的なリハビリをすると、機能が大幅に回復することがあるからです。第二の理由は、たとえ機能が全く回復しなかったとしても、リハビリ病院入院中に介護保険の申請などの手続きがとれ、家族に心の準備ができて、家族の介護負担を減らせるからです。だから、急性と慢性の認知症の差は重要なのですが、その区別をせずに、介護負担を論じています。

上記の回復期病棟のシステムもそうですが、「高齢者以上に現役の社会的弱者にも個別事情に応じた人的援助を与えるべきである」に書いたように、日本は世界史上最高の高齢者福祉を実現させています。そんな常識を知っていたなら、「日本で介護殺人が多発している」との報道に違和感を持つはずです。「日本で介護殺人が多発しているはずがない。おそらく、海外ではもっと多いはずだし、昔の日本ではもっと多かったはずだ」と考えるのが普通です。実際、年間わずか20件程度の介護殺人なら、高齢者の自殺者数と比較すれば、500分の1程度です。「介護殺人をここまで大げさに報道するくらいなら、その500倍もいる高齢者の自殺者を50倍は報道すべきじゃないですか?」と言うNHK記者は一人もいなかったのでしょうか。

日本の高齢者福祉制度は素晴らしいので、それを介護者がよく知っていれば、介護殺人のいくつかは防げます。介護殺人を避ける方法として、認知症情報の普及、高齢者福祉情報の普及、介護士不足の解消、家族のことは家族で解決すべきという固定観念の払拭(上記の本でほぼ唯一の解決案の提示)の四つが重要だと私は考えます。もっとも、これらを徹底しても、年間20~30件程度の介護殺人なら避けられないだろう、と私は考えます。前回の記事で私が批判した倫理観の低い元看護師や、それを見抜けない倫理観の低い記者は、世の中にどうしてもいるからです。

人生は、始まりは似たようなものですが、時間経過にしたがって、それぞれ違いが大きくなります。理論上、高齢者で違いは最大になります。この本では介護殺人を一括して論じていますが、一括している時点でおかしいでしょう。人は死ぬ時であっても、それまでの人生と無縁でいられません。一件の介護殺人を取材しようと思ったら、殺された高齢者と殺した家族の両者の人生について、徹底的に取材しなければ、その本質は見えません。こういった高齢者あるいは人生に対する基礎知識すら、この本からは感じられません。

以上のように、高齢者や医療や福祉の基礎知識を持たずに、NHKの記者たちは適当に取材しています。記者たちは全員「介護殺人を1件でも減らしたい」という思いだった、と書いてありますが、本気でその目的を達成したいのなら、こんな見解の浅い番組を報道するより、認知症や高齢者福祉制度の情報普及番組にした方がよほど有益だったと私は確信します。

次の記事で、介護殺人についてNHKより質の低い報道をした毎日新聞を批判します。

 

※この介護殺人統計を堂々と放送しただけでもNHKは取材不足だと批判されるべきでしょう。単に新聞データベースを調べただけの研究で、下のグラフの通り、年間40~50件程度の介護殺人が起きたことが示されています。NHK報道の「2週間に1度」ではなく、「1週間に1度」と2倍も誤差があります。下のデータは介護殺人についてNHKより先に報道した毎日新聞の本にも出てくる有名な研究結果です。素人でも調べれば容易に出てくる研究すら見落とすほど、NHKの取材力は低いようです。