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北九州監禁殺人事件裁判のいびつさ

「消された一家」(豊田正義著、新潮文庫)で、裁判所での笑い声の次に気になったことは、緒方純子が死刑を求刑されているのに、最初の犠牲者の娘である服部恭子(仮名)が無罪どころか、被告にすらなっていないことです。

本を読んでもらえれば分かりますが、緒方純子も服部恭子も主犯の松永太に長期間脅され、洗脳され、松永により家族を亡くし、殺人を実行しています。最高裁まで争った裁判で、純子が無期懲役になったのに対し、恭子は被害者のままです。恭子が犯行時に高校生で未成年だったことを考慮しても、少年審判すら受けていないのですから、不公平極まりないでしょう。

またそれ同様に気になるのが、恭子の証言の不自然さです。いえ、不自然というより、恭子は検察により嘘を証言させられています。

恭子の父は娘の前で、両あごに電気をかけられ、食べ物が口から飛び出て床に散らばってしまい、「もったいない!」と叱られながら拾って口に詰め込み、トイレに行けないので漏らしてしまった下痢便を食べるように命じられ、汚れたパンツごと口に詰めてチュウチュウと吸い、尻の便を拭き取ったトイレットペーパーも水といっしょに飲み込み、オエオエと涙を流しています。主犯の松永は、恭子の父を汚いと思っており、「臭い」「汚い」と言って消臭スプレーをかけたりして、「あんたみたいな人間は死んだほうがマシだ」と何度も言っていました。

一般人の判断からすれば、「あまりにむごい」「なんとしても救わなければいけない」「犯人は死んでも償えない罪を犯している」としか思えないでしょう。しかし、犯人と同じ側にいる人間からすれば(犯人に洗脳されている人間からすれば)、恭子の父は人間以下の存在にしか思えません。この状況を見ていた松永の内縁の妻である純子は「(恭子の父の)面倒を見るのは嫌だ。不衛生、不経済で、長男の教育にもよくない。この人との同居をなんとか避けたい」と考えていました。「かわいそう。助けたい」という感情はないに等しく、むしろ「汚いし、松永のルールを破るのだから当然の報いだ」くらいにしか考えていません。

娘である恭子も、間違いなく、自分の父を見下して、人間と思っていません。事実、恭子は上記の父への虐待の手助けをし、さらには父が死んだ時も目撃し、あまつさえ父の死体を包丁やノコギリで切り刻んでいますが、その時に涙を流した、などの証言は一切していません。上記の気の滅入るような虐待を裁判でも淡々と語ったそうです。

だから、「私はお父さんを嫌いになったことはありません」との恭子の証言はほとんどウソです。もちろん、最後まで自分の父だという認識はあって、子は父を慕うべきとの常識も忘れたわけではないでしょうが、「嫌い」と言葉にしていなくてともそれに近い感情、あるいは「好きも嫌いもないほど、父を見下していた」でしょう。「お父さんの仇はきっと私がとります。そのために両者(松永と純子)の死刑を求めます」も確実に検察が恭子に言わせています。松永に完全に洗脳されていた恭子に、仇をとるほど父に思い入れがあったわけがありません。

日本の犯罪者は反省を強要される」でも書いたように、日本の裁判では家族関係を異常に重視します。そのため、父の死に全く悲しまなかったどころか、父の死体解体作業まで実行した娘が「父の仇をとります」と裁判で証言する、という奇妙奇天烈なことが起こってしまいました。恭子本人に実行した虐待だけでも、恭子が松永を殺しても殺し足りないほどの恨みを持っていることは当然です。被告に厳罰を科したいからといって、恭子の本心を捻じ曲げてまで「父の仇」などを検察は裁判で持ち出すべきでなかったでしょう。