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日本の犯罪者は反省を強要される

アメリカ人のみた日本の検察制度」(デイビッド・T・ジョンソン著、シュプリンガー・フェアラーク東京)によると、「犯罪者を反省させることが重要」と考える日本の検察官は92.7%なのに対して、アメリカの検察官はわずか8.8%です。また、「犯罪者と被害者との関係の修復が重要」と考える日本の検察官は67.6%なのに対し、アメリカの検察官はなんと0%です。

刑事裁判では、検察官は被告に罰を与えることを目的としています。被告が反省すると罰を与えにくくなるので、検察官が被告に反省を求めることなど通常ありません。まして、検察官が被告と被害者の関係を修復することなど、ありえません。少なくとも、アメリカの検察官は、それらが仕事の範疇に入ると考えていません。では、なぜ日本の検察は被告に反省を求め、被告と被害者の関係修復をはかろうとするのでしょうか。

これまで書いてきていませんでしたが、アメリカでは裁判前に検察官が容疑者や被告とまず会いません。検察官が容疑者や被告と始めて会うのは裁判なので、お互いに敵同士となっています。一方、日本では裁判前に検察官が容疑者に取調室で長時間話し合います。「日本では自白が作られる」に書いたように、取調室で容疑者は自白を強要されますが、その大きな理由の一つは「自白は反省を示すから」です。

もちろん、自白しても反省していない者もいますし、反省しているが自白しない者もいます。それを全くと言っていいほど考慮しない日本の検察官たちの倫理観に大きな問題はありますが、概ね、反省していれば自白する傾向はあるでしょう。

ともかく、自白させて反省の弁を述べれば、刑を逃れたいために上辺だけの反省を示しているのかどうか、日本の検察官は時間をかけて容疑者の本心を探ります。アメリカの検察官のように「人が反省しているかどうかなど本当には分からない」と諦めないで、上記の著者によると、容疑者の反省が心からのものか、日本の全ての検察官が真剣に検討していたそうです。

さらに、その反省が本心であることを示すために、被害者への金銭的な賠償をするように、検察官は容疑者に勧めるそうです。賠償まですれば、重罪や重犯でない限り、検察官が容疑者を起訴することはありません。

アメリカの検察官はこの日本の習慣に対して「金持ちが無罪になって、貧乏人が有罪になるシステムではないか!」と道徳的に批判します。しかし、日本の検察官にとって、被害者への賠償時に、金銭の多寡はほとんど問題になりません。「親戚を頼れば、なんとかお金は集められるもの」らしいです。

犯罪者に反省を促すことが検察官の仕事の大切な要素になっているからでしょう。日本の犯罪者は検察官に対して非常に従順です。アメリカの犯罪者が検察官と敵対的なのとは大違いです。また、著者によると、日本の検察官は、アメリカの検察官と違って、犯罪者の悪口を言うことが滅多にないそうです。さらに、日本の検察官の多くは、どんな犯罪者であっても更生させられると信じている、とまで書いています。

一例をあげます。

45才の無職の男性が知り合いの女性を凶暴な方法で強姦した罪で裁判にかけられていました。彼は一般社会に定着しておらず、教育がなく、身だしなみが悪かったそうです。彼は婦女暴行で既に2度懲役刑をうけており、他にも重罪の前科を持っていました。裁判で弁護人は被告人に被害者に与えた苦痛に対して心から申し訳ないと述べさせ、2度とこのようなことはしないとはっきり約束させました。しかし、今後どのように自分を改めていくかについては、被告はぶつくさ呟いて、「がんばります」とあいまいな約束をしただけでした。そこで、弁護人は俳句には人を更生させる効果があると突然言い出して、次のようなやりとりが公開裁判の席上で行われました。

弁護人「あなたは俳句を作ったことがありますか?」

被告「まったくありません」

弁護人「作るべきです。私もよく作ります。俳句ほど心を集中させ、精神を浄化するものはありません」

被告「分かりました」

弁護人「芭蕉という人の名を聞いたことがありますか?」

被告「ありません」

弁護人「じゃあ、芭蕉を読みなさい。そして、自分でも俳句を作りなさい。きっとあなたのためになりますよ。芭蕉はこんな句を作りました。『古池やかわず飛び込む水の音』。ねえ、素晴らしいでしょう? この句を聞いたことがありますか?」

被告「いえ、ありません」

弁護人「それじゃあ、俳句の勉強を始めたらどうですか。こういうものはあなた自身を変えるのに本当に役に立ちますよ」

被告「はい、やってみます。ありがとうございました」

この裁判を傍聴していたアメリカ人の著者は、芭蕉の句が読まれた時、こらえきれず、くすくす笑ってしまったそうです。著者はこの被告をどうしよもない奴だと思っていました。こんな奴は一般の人から隔離する以外にしようがない、それ以外の方法で彼を遇するなら、「マジメな人々をバカにして、ずるい奴をのさばらせる」ことになる、とみなしたそうです。この弁護人は真面目にやっているのだろうか、と著者は疑問に感じていました。

しかし、驚いたことに、検察官は弁護人に裁判で同意しました。この裁判後、裁判を傍聴していた司法修習生に聞いても、あの被告であっても努力すれば本来の徳性に近いものを取り戻せる、と言ったそうです。検察官にいたっては「更生できないわけがないじゃないか。おそらく、俳句は彼の生活ぶりを一変させると思うよ」とまで裁判後に言ったそうです。

私の感想を書きます。日本の法曹界は世間知らずばかりなのでしょうか。重罪を何度も犯した教育のない者が俳句を勉強しつづける可能性など、ほぼありません。まして、それで更生できる可能性など皆無に等しいでしょう。

とはいえ、上記の著者のように「こんなどうしようもない奴は一生、一般の人から隔離するしかない」と断定すべきではありません。どんな犯罪者であれ、更生できる可能性はゼロでありません。また、その犯罪者から社会が学べることもあります。なにより、そのような境遇に犯罪者を追いやったのは、犯罪者だけの責任ではなく、社会全体の責任でもあります。それなのに、社会が犯罪者だけを罰して終わりにするのは、道徳的に間違っているはずです。

だから、凶悪な犯罪者であったとしても更生を目指すべきでしょう。しかし、上記のやりとりを見る限り、俳句がこの犯罪者を更生できる可能性が極めて低いことは間違いありません。だから、俳句以外の手段も含めて、この犯罪者の更生を目指すべきと考えます。著者の「一般の人からの隔離」がどのような意味かは不明確ですが、ここまで重罪を何度も犯した人なら、無期懲役以外の選択肢もあるとはいえ、「長期間の一般の人からの隔離」が妥当になるとは思います。45才という年齢を考えると、その隔離期間が生命の終末期近くまでになるのも、やむを得ないと考えます。

日本の検察官は犯罪者の反省を促し、更生を目指します。それは好ましいことだと私は考えますが、検察官のほぼ全員が恵まれた環境で育ってきたせいか、上記のような世間知らずなところがあるようです。それと関係しているのでしょうが、検察官が反省を促す時、家族関係を不自然なほど重視しています。この儒教的な古き良き家族関係の偏重は蔓延しているので、おそらく検察官のマニュアルにも明記されていると推測します。その弊害は甚大です。

これからの個別の犯罪事件の記事で、この家族関係の重視の弊害については多く指摘していくことになります。