これまでの記事にも書いたように、日本の冤罪事件は、容疑者の自白が異常に重視されて生まれているものが少なくありません。しかも、その自白が、検察や警察による身体的、精神的虐待によって生じていたりします。狭山事件では身体的および精神的虐待だけでなく、警察の卑怯すぎる嘘により、一人の無実の青年の人生が台無しになっています。
狭山事件については有罪を支持する本も出版されていますが、2010年出版の「狭山事件の真実」(鎌田慧著、岩波現代文庫)で有罪とする証拠は全て論破されていることは、普通の思考力のある人なら分かるでしょう。
wikipediaには今も脅迫状と石川の筆跡が似ている写真を載せていますが、これは証拠にはなりません。世界史上で最も有名な冤罪であるドレフュス事件でも筆跡鑑定が有力な証拠となっていましたが、筆跡鑑定がそれほど科学的でないことは既に証明されています。そもそも、石川は筆記能力があまりないのに、脅迫状を見ながら警察の命令で数十回も同じ文を書かされているので、そのうちのいくつかの文字が似てしまうのは当たり前です。これらを証拠として筆跡鑑定で一致すると裁判で判定されたことに石川は後に「怒りを禁じ得ません」と述べています。
狭山事件は、1963年5月1日から埼玉県で発生した誘拐殺人事件です。警察は人質と金の交換場所に張り込んでいたものの、現れた犯人を捕り逃してしまいます。同じ年の3月に東京の吉展ちゃん誘拐事件でも警察は誘拐犯の指定した場所に張り込んでいたものの、お金を奪取した犯人を捕り逃していたので、警察への批判は強まっていました。狭山事件の死体が発見された5月4日には、警察庁長官が引責辞任しています。
狭山事件でも真犯人がなかなか捕まらないことに警察は苛立っていました。そう本にはありますが、「真犯人」の石川一雄が逮捕されたのは5月23日なので、事件発生からわずか3週間で警察は殺気立っていたようです。
この時点で石川だけが容疑者だったわけではありません。しかし、石川逮捕翌日の新聞各社は「ホッとした地元」「捜査の苦労実りそう」「目の前に(犯人が)いたとは……」「底知れぬ不気味な石川」「アリバイ工作の疑い濃い」と真犯人が捕まったかのような報道を繰り返しました。石川の逮捕容疑は窃盗、暴行、恐喝未遂であり、誘拐殺人容疑ではなかったのですが、最初から石川の取り調べは狭山事件についてばかりでした。つまり別件逮捕で違法なのですが、それについての指摘も非難も新聞各社は一切していません。
警察とマスコミがグルになって冤罪をでっちあげる構造は、残念ながら、ほぼ全ての冤罪事件で発生しています。
警察では当たり前のように石川に手錠をかけて、長時間の尋問をします。しかし、もともと「不良」であった石川は気性も荒く、警察に暴力を返すこともあったようで、簡単に自白しません。6月12日の東京高検との打ち合わせで、それまでの状況証拠(筆跡鑑定や足跡鑑定)では起訴は無理(裁判で有罪にできない)と判断されていました。6月13日に警察は別件で起訴して、引き続き狭山事件について石川を責め立てます。6月17日に勾留期限が切れ、石川は保釈されますが、その直後、留置場の門をくぐる前に強盗、強姦、殺人、死体遺棄で、つまり狭山事件の容疑者として再逮捕されます。
この再逮捕が石川に大きな勘違いを生じさせます。この時点で石川に3人の弁護士がついていて、6月18日に裁判所で勾留理由開示があると石川に知らせていました。しかし、石川は6月18日に正式な裁判が始まると勘違いしてしまい、再逮捕のため裁判が始まらなかったので(再逮捕のため裁判所に行かない可能性があることも弁護士は石川に伝えていたが、石川はそれを理解していなかった)、弁護士を信用しなくなったのです。このことを取り調べ中の警察に告げると、警察は「弁護士は嘘つきだからなあ」と石川に共感したそうです。もともとインテリの弁護士たちと、小学校もまともに通っていない石川は水と油であり、以後、控訴審開始まで石川は弁護士を全く信頼していませんでした。
再逮捕から3日後の6月20日、ついに石川は自白してしまいます。なぜ石川はしてもいない罪を自白してしまったのでしょうか。その最大の理由は、長谷部梅吉警視の「10年で出してやる」という嘘を石川が信じてしまったからです。既に認めている別件の犯罪でも10年は刑務所に入れられると警察に騙されていた石川にとって、これは渡りに船の提案でした。上記のような弁護士への不信感を逆手にとって、「(嘘をついても平気な弁護士と違って)警察は嘘をつくとクビになる。10年で出すと言えば、必ず10年で出してやる」と間違いなく長谷部は言ったと石川は後に裁判で証言しています。この10年で出す約束について、石川は警察と縁が切れるまで、執拗に確認したことを証言しています。
警察が刑を軽くしてやるから自白しろ、と嘘を言うのは、残念ながら日本の警察の常套手段です。石川はもちろんですが、ほとんどの一般人は刑事訴訟法などなにも知りません。まして、容疑者は一秒でも早く警察の強引な尋問から逃れたいと思っています。警察が量刑を決めるのではなく裁判所が決めることは少し考えれば分かるとエリートは思うでしょうが、この嘘にひっかかった日本人は無数にいるはずです。このような警察の嘘は、身体的あるいは精神的虐待と同等かそれ以上に道徳的に許されないはずです。
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