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日本の検察制度の長所

アメリカ人のみた日本の検察制度」(デイビッド・T・ジョンソン著、シュプリンガー・フェアラーク東京)は、日本の刑事裁判制度の長所も書いています。

手放しで賞賛しているのは、日本の検察制度の一貫性です。アメリカでは、同じ州で起こった同種の犯罪でも、検察側の要求する量刑が大きく異なるそうです。理由として「二つとして同じ犯罪は存在しないから」がよく言われるそうですが、あまり納得できない話です。たとえば、日本でもアメリカでも起訴される事件の多くを占める交通犯罪は、被害の程度、弁償の有無、犯罪者の反省の有無などで、起訴するかどうか、あるいは起訴した時の求刑量は日本だと機械的に決まっていきます。そのための基準集、マニュアルまであります。一方、アメリカではそんな基準集が存在しないため、恣意的な起訴、検察官の一存による求刑量が多発してしまっています。

交通犯罪に限らず、日本の検察官は全ての犯罪の起訴・不起訴を決めるとき、あるいは求刑量を決めるとき、可能な限り前例を参照します。この一貫性を守るために、日本の検察には決裁制度があります。決裁制度とは、現場の検察官が最終処分を決めるとき、必ず上司の2名程度の検察官の決裁を受けなければいけない制度です。アメリカでは、ほとんどの検察官が独自に動いており、決裁制度は存在していません。

結果、アメリカでは同種の犯罪なのに、黒人被告への求刑量は、白人被告への求刑量より重い、という統計事実が出てきてしまいます。日本でも外国人被告への求刑量は、日本人被告への求刑量より重くなっている気はしますが、そのような統計が存在しないので分かりません。ただし、上記の著者は、長期間の取材中、そのような人種差別を感じたことはなかったそうです(ただし、人種格差はなくても、殺人罪に関しては関東よりも関西の方が軽い刑に決まりやすい、という地域格差はあったそうです)。

また、アメリカの裁判では、事実があまり重視されない、という信じがたい傾向があります。日本の検察官が精密司法と呼ばれるほど詳細な調書を作成する傾向の対極にあると言えるかもしれません。

そもそも、アメリカの検察官を含む法曹関係者は、概ね、完全な真実は誰にも分からない、という不可知論に立っています。「真実とは『合理的な疑いを入れない程度』に示されていればいい」「われわれが求めているのは正義であって真実ではない」という信念があるようです。

この仮説に立脚し、アメリカの検察官は答弁取引(被告の自白等と引き換えに訴えの対象を一部の訴因、又は、軽い罪のみに限る合意)を日常的に行っています。答弁取引により、事実の追及を放棄し、同時に労多く効少ない捜査・取り調べ・裁判を省略し、量刑という結論を得ています。まだ事実もよく分かっていない段階で、被告や容疑者に自白させる代わりに量刑を軽くするなど、日本では考えられない制度かもしれません。ただし、日本でも被告や容疑者が自白すれば、量刑は軽くなる傾向はあります。

答弁取引の明らかな欠点は、被告に反省を促しにくい点でしょう。実は、これこそが日本とアメリカの検察官の目標の最大の違いになります。次の記事に続きます。