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2010年代のミャンマーの民主政治期

2021年2月1日にミャンマーで軍事クーデターが起きます。事実上の最高指導者であるアウンサンスーチーが拘束され、「ミャンマー現代史」(中西嘉宏著、岩波新書)によると、「2011年以来続いていた民主政治」が終わりました。

ミャンマー軍事独裁政権が長く続いてきました。1948年の独立以来、54年間が軍事政権です。軍事政権の間、憲法すら存在しない時期が38年もあります。ミャンマーの国政選挙は、独立前の政権議会議員選挙も含めると、12回実施されています。同時期の日本は、戦後の衆議院議員選挙だけでも27回なので、その半分未満です。その12回の国政選挙のうち、5回は軍事政権下なので、最初から軍政が続くように設定された不自由で不公正なものです。残りの7回の国政選挙のうち、4回は1940年代から1960年の独立前後の混乱期に実施されます。残り3回は1990年以降に実施され、うち2回は軍が選挙結果を無効にしています。

ミャンマー現代史」では、2011年から2021年のミャンマーの「民主政治」を政治制度にまで踏み込んで詳述しています。それを読み込めば理解できますが、ミャンマーで十分な民主政治が実現した期間は一度もありません(だから、ミャンマーの「民主政治」とカギカッコつきで私は表現しています)。「民主政治」を実現した2008年憲法では、行政機関の軍将校の出向を認め、連邦議会の上下定員の4分の1を軍代表議員としており、大統領でも軍に介入できないので、軍の文民統制は全くできていません。制度的に軍事政治なのか民主政治なのか不明確な上、そもそもミャンマー法治国家ではなくて人治国家です。1988年の軍事クーデターから23年間も独裁者であったタンシュエが引退し、テインセイン大統領が就任した2011年時は「こんな体制移行はかたちだけで、実態としては軍事政権が続くだろうという見方が大勢だった。(ミャンマー現代史の)筆者もそう考えてい」ました。

「ところが、2011年からこの国は大きく変わった。政治、経済、社会、外交、あらゆる面で、ミャンマーはほとんど別の国になったかのようだった。そうなると今度は、この国は軍事政権には戻らないといった声が支配的になる。筆者もそう言っていた。そこにクーデターが再び起きるわけだから、予想はなんともしがたい」と「ミャンマー現代史」には書かれています。

朝日新聞はこの「ミャンマー現代史」の見解をほぼ踏襲した記事ばかり書いています。2011年までミャンマーは暗黒時代で、2011年から2021年までバラ色時代が続いたが、2021年の軍事クーデターで再び暗黒時代に戻ったような見解が支配的です。

しかし、その見解は極端です。端的にいえば、ほとんど間違っています。2011年までの間もミャンマーの経済は成長していましたし、2021年以降も2011年の前の経済レベルに戻ったわけでは決してありません。「アジア最後のフロンティア」と称されだけあり、経済発展の余地はいくらでもあるので、軍事政権期でも民主政権期でも、経済は成長しつづけ、国民の生活だって発展しつづけています。

また、2011年から「民主政治」が始まったと言っても、2011年から2016年までの最高権力者である大統領テインセインは元軍人であり、閣僚を含めた政権幹部はほぼ全員軍人関係者です。2010年に国政選挙は上記の分類で「軍事政権下の国政選挙」なので「不自由で不公正」です。2011年から2016年までは、その2010年の国政選挙で勝った議員たち、つまり軍の味方の議員たちが国政を担っていました。これのどこが民主政治なのでしょうか。

2015年の民主的な選挙で勝ったアウンサンスーチーが最高権力者になった2016年から2021年の時期は、私も民主政治が行われたと認めますが、それでも一般的な民主政治には見劣りします。

第一に、上記のように軍の文民統制が全く効いていないので、いつでも軍事クーデターが容易にできました。1958年と1962年のミャンマーの軍事クーデターがそうだったように、制度上は文民統制が効いている国ですら、軍事クーデターは起きます。まして、文民統制が効いていない国なら、軍はクーデターしたい放題です。現実に2021年にミャンマーで起きた上、その直前にミャンマーの軍報道官が「(クーデターは)ありえるともありえないともいえない」と記者の質問に答えています。

スーチー政権期でさえ民主政治といいにくい第二の理由は、スーチーが憲法の規定しない「国家顧問」という最高権力者になったことです。確かに、ミャンマーの民主主義を進めるためには、軍事政権下で作成され、軍に都合のいい2008年の憲法は遵守すべきではありません。それにしても、憲法上は大統領が最高権力者なのに、自身が大統領に就任できないからといって、「大統領の上(スーチーの表現)」に国家顧問という役職を作り、行政府と立法府の広範な「助言(事実上の決定)」を行うとは、まるで独裁者です。事実、ロヒンギャ問題を筆頭に、スーチーに失望・批判する声が日本を含む民主主義国家から多く出るようになってきました。国家顧問の設置は、当然、軍から憲法違反だとの批判を浴びますし、「憲法を遵守させる」というクーデターの大義名分を軍に与えてしまいました。

民主政治といいにくい第3の理由は、第1や第2と関連しますが、十分に民主的とは言いがたい2008年憲法がまだ生きていたことです。スーチーの政党NLDが2015年選挙で圧勝して、政権交代が行われたとはいえ、選挙なしで議員になれる軍代表議員がいまだ議会の4分の1を占めています。憲法改正には議会の4分の3以上の賛成が必要なので、軍の同意なければ憲法改正は不可能なままです。政権幹部の軍関係者が激減したとはいえ、一掃されたわけではなく、2016年以降も副大統領は軍出身です。

だから、「2011年から2021年までがミャンマーの民主政治期」とは、あくまで「ミャンマー現代史」の著者の考えです。ミャンマーの民主政治期は、2008年憲法制定からと考えることもできますし、私のようにスーチー政権が発足した2016年からと考えることもできます。あるいは1962年の軍事クーデター以降、ミャンマーに民主政治が存在した時期はないと考えることもできます。

私が2016年からは民主政治が行われたと考えるのは、2015年に民主的な選挙が行われ、そこで勝った議員たちが政治を行ったからです。「民主政治」を単に「議会の中で多数を占める政党が内閣を組織する議会制民主主義」と定義すれば、2010年の選挙で勝った議員たちが政治を行った2011年から「民主政治」になります。しかし、2010年の選挙が「軍事政権下の不自由で不公平な選挙」である以上、そこで選ばれた議員たちの政治は民主的と言えない、と私は考えます。

後述するように2011年から2016年のテインセイン政権は、世界中の多くの人の予想に反して、「民主的」な政治を行いますが、それは発展途上国によくある「開発独裁」の相似形です。韓国の独裁者の朴正煕政権は経済を発展させ、国民の生活も改善させましたが、当時の韓国は紛れもない軍事政権でした。朴正煕政権が民主政治を行ったとは世界中の誰も認識していません。だから、非民主的選挙で選ばれた軍関係者議員たちが国会に多く居座り、大統領も独裁者タンシュエが決めたような政権が民主政治とは言えないと私は考えます。

それでは、なぜ「ミャンマー現代史」の著者は、スーチー政権だけでなく、テインセイン政権期も民主政治とみなしているのでしょうか。

その理由について、本では明確に書いていませんが、「政治批判が自由にできる」ことが大きかったと私は考えています。2011年まで、ミャンマーでは街中に軍の諜報員が潜んでおり、密告もよくありました。報道・出版の検閲も当たり前のようにありましたが、2012年に検閲が禁止され、それまで国営新聞しかなかったのに2014年には報道の民間参入が可能になります。他の国家では当たり前の政権批判報道が、ミャンマーでも普通に観られるようになったのです。

決定的だったのは2012年に補欠選挙で、NLDが圧勝し、スーチーが国会議員になったことです。スーチーは「ミャンマーで進む改革のグローバル・アンバサダーのような役割」を果たし、多くの外国を訪問します。このスーチー効果はてきめんでした。ミャンマーは軍事政権下で強い経済制裁をかけられていましたが、「驚くほどのスピードで」緩和が進みます。海外直接投資は、2011年の3億ドルから2015年で95億ドルと30倍以上に拡大します。この海外直接投資な爆発的増加こそが、ミャンマーの経済発展の原動力となります。

経済はスーチー政権が始まるとさらに発展していきますが、テインセイン政権から加速したわけではありません。2016年から2019年までの経済成長率は6.3%で、テインセイン政権の7.1%より低くなっています(2020年の経済成長はマイナス18%ですが、これはスーチー政権の失敗というより新型コロナによる打撃と見る方が妥当でしょう)。経済制裁の緩和も進み、海外投資も増えて、GDP上昇が続いたものの、経済の全般的発展は「スーチー政権の新しい政策によるものというよりも、テインセイン政権の改革を引き継ぐことで生まれ」ています。

下のグラフにあるように、スーチー政権では、テインセイン政権よりも成立法案が少なくなっています。

数だけからは単純に判断できませんが、テインセイン政権よりもスーチー政権は、改革が鈍くなった側面もあるのです。その理由として、「軍の抵抗があったから」と私はすぐに考えましたが、「ミャンマー現代史」は軍の抵抗のために改革が遅れたとは一言も書いていません。むしろ、スーチー政権の実務能力の低さが原因だと述べています。

そもそもですが、スーチーは政治家とはいえ、行政の実務経験は全くありませんし、選挙で国会に入ったNLDの多くの議員も同様です。だから、スーチー政権は政治の実務能力が極めて低く、それがために政治改革もなかなか進まなかったようです。

こうみると、2016年のスーチー政権からではなく、2011年のテインセイン政権から「ミャンマーが変わった」と考えた方が妥当でしょう。とはいえ、2011年前後でミャンマーが変わったことは認めても、やはりミャンマーの民主政治は2016年から2021年のクーデターまでだった、と私は考えます。

もっとも、ミャンマーの民主政治の期間がいつからいつまでか、あるいは民主政治の定義など、本来、どうでもいいことです。それよりも重要なのは「ミャンマーは軍事政権には戻らないといった声が支配的に」なっていたのに、なぜ軍事政権に戻ったのかという問題です。あるいは、2021年のクーデター後、あるいは今後、ミャンマーがどうなるかの問題です。

次の記事でこれらを考察します。