未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

西洋における人権の尊重

カナダにいて最も驚いたことの一つに、自由や平等といった基本的人権が非常に尊重されていることがあります。「国家権力に対して個人の力は小さいので、憲法が個人に与えた力が基本的人権だ」という説を、日本の法学教養本で読んだ記憶があるのですが、私の知る限り、西洋だとそれだけでなく、日常生活にも根付いています。法人と個人、団体と個人、個人と個人の間でも、基本的人権は尊重されます。

たとえば、20代女性の英語教師がカンバセーションクラブで、「私の祖母の世代では女性の参政権は認められていなかった。女性には政治を考える能力がないと判断されていたのだ。我々はこの権利を守っていかなければならない」などと語り出したりします。議論のテーマが女性参政権でないのに、銃規制だったり、安楽死だったりするのに、なぜかそんな話になっているのです。しかも、そのカナダ人女性はインテリではありません。高卒で、タレント志望だったりするのです。インテリのカナダ人なら、さらに深い人権の話が出てきます。私は30年以上日本に住んでいますが、女性参政権の起源について突然語り出す日本人女性に会ったことがありません。もしそんな女性がいたら、日本だとドン引きされるに違いないでしょう。

また、私は語学学校で、クラスの中心に一人で立たされて、先生とこんな対話をした経験があります。

先生「キミはこの学校が好きか?」

私はその語学学校を辞めて、カンバセーションクラブに行きたかったので、どちらかと言えば、嫌いでした。しかし、「嫌い」と答えるのは失礼ですし、その理由を言うのも嫌だったので、こう答えました。

私「I don’t know.(知らない)」

先生はムッとした表情でこう告げます。

先生「この教室では、私の質問に答えるのがルールだ。最初に言っただろう」

日本でもそうですが、先生の質問に生徒がまともに答えないと、先生は怒ります。「『西洋人はyesとnoをはっきりさせる』はウソである」の記事とやや矛盾しますが、西洋だと日本よりも遥かに「発言なし」は許されません。質問に明確に答える必要があります。

とはいえ、西洋人だとか日本人だとかいう以前に、私も先生も同じ人間です。人間なら、「知らない」はしばしば「答えたくない」という意味で、つまり「この学校嫌いだけど、そんな失礼なこと言いたくない」であることくらい、ある程度は察しているはずです。そんな感覚は世界共通だからです。その事情を説明してもいいのですが、その時の私は西洋流に人権尊重の原則を用いて、反論しました。

私「カナダは民主主義国家ではないのですか? 民主主義国家なら、私には全ての質問に答えなくてもいい権利があるはずです」

発言を促すと普通、生徒は萎縮するものですが、その反対に生徒が堂々と反論したことで、先生は一瞬呆気にとられましたが、すぐに笑って

先生「なるほど。確かに、カナダは民主主義国家だ。キミの言う通り、キミには答えたくない質問に答えなくていい権利がある」

と言い、教室のルールより私の権利を優先して認めてくれました。

もちろん、こんな主張がいつも通るわけではありません。ただし、日本だと「ルール」が問答無用で優先されるのに対して、カナダでは「ルール」よりも個人の権利(主張)が優先される場合が何度もありました。

これを「西洋では、なんでも自己主張すべきだ」と考えている日本人がいますが、それは正しくありません(と私は思います)。確かに、西洋では日本の比ではないくらい自己主張が重要なのですが、「なんでも」自己主張すればいいわけではありません。公共の福祉に反しない限りで、他人の基本的人権を必要以上に侵害しない程度に、自分の基本的人権を主張すべきなのです。

こうなると、結局、カナダも日本とあまり変わらないような気がするかもしれません。事実、そう言っていた日本人もカナダで会いました。私も、好ましい社会の在り方なんて、究極的に日本とカナダでそれほど違いはない、と考えています。ただし、カナダの方が日本より理想社会に近づいている、とも思いました。その一つの根拠が上記のように、お互いの主張が対立した時、(教養の高い)カナダ人は頭のどこかに基本的人権という着眼点が常にあると感じたことです。

西洋人はなにごとも根本的な視点から考える傾向があるようです。「ground rules」の記事で、私は西洋のground rules作りを「子供だまし」と批判しましたが、見方を変えれば、ground rules作りも西洋人の「根本的な視点から考える傾向」の一つの現れだと思います。なお、その記事では明確に書いていませんが、私がground rules作りをしたのは、いつも多国籍の人たちとで、西洋人グループでground rules作りをしたことは一度もありません。