未来社会の道しるべ

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酒鬼薔薇事件を大きく扱う屈辱

二人の殺人事件であるのに、現在にいたるまで、酒鬼薔薇事件は日本社会で極めて有名です。二人以上の殺人事件など毎年のように起こっていますが、この事件が別格で有名になったのは、犯人も「絶歌」(元少年A著、太田出版)で認めているように、その犯行声明文にあります。私を含めた多くの人はあの犯行声明文に衝撃を受けて、事件の本質以上に酒鬼薔薇事件に注目してしまいました。そのため、酒鬼薔薇事件は関係書物が非常に多くなっており、考察しやすくはなっています。

犯人が少年院出所後に出版した「絶歌」には、批判が殺到しました。被害者側の許可もとらずに出版したことは私も問題だと思いますが、今回注目したいのは、犯人が本を出版した理由です。

本には「自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの『生きる道』でした」と出版理由が書かれています。これが本当であれば、なにも出版する必要はありません。考えて、書いて、整理することを繰り返し、犯人が自分の文章あるいは思考に納得すればいいだけです。誰にも見せる必要はありません。

なお、世間一般に流布している自分への誤解をなくすために書いたとは「絶歌」に一言も書かれていません。

そうなると、普通に考えれば、犯人が「絶歌」を出版したのは、自己顕示欲によるところが大きいでしょう。事件の犯行声明文がよく示しているように、犯人は事件中から現在に至るまで、極めていびつな自己顕示欲を持ち続けています。

性格異常者の自己顕示欲のせいで、酒鬼薔薇事件が必要以上に注目を集めている事実を考慮すると、私がこのブログで酒鬼薔薇事件を大きく扱うのも犯人に振り回されているようで、屈辱ではあります。

次の記事に続きます。