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なぜ加藤智大は自殺ではなく殺人事件を起こしたのか

ネットで調べてみたところ、ほとんど(あるいは全く)考察されていない問題のようなので、あえてこのブログで考察してみます。

前回の記事にも書いたように、事件の2年前、2006年8月にも加藤は事件時と同じ状況になっていました。借金に追われ、仕事を辞めて、ネット掲示板で強い疎外感を味わい、自暴自棄になっていました。しかし、2006年時は自殺しようとしたものの、無差別殺人を実行しようとはしていません。なぜでしょうか。

人間の心理として、強いストレスにさらされると、悲しむか、怒ります。自分に対して情けなくなるか、他者に対して発散するかなので、真逆に思えるかもしれませんが、原因はどちらも強いストレスです。悲しむか、怒るかの反応違いは、単なる気まぐれで決まることもあります。偶然、たまたま悲しんだだけ、たまたま怒っただけなので、なぜその反応になったか考える価値があまりない場合もあります。

だから、加藤についていえば、2006年の段階で、無差別殺人を実行した可能性もありました。転職人生を繰り返していると、いずれ切羽詰まった状態になり、その時に自殺するか、殺人を犯すかは運次第、という側面もあったと思います。だからこそ、なぜ2006年では自殺で、なぜ2008年は無差別殺人なのかは、これまであまり考察されていなかったのかもしれません。

とはいえ、2006年と2008年の加藤の反応の差に、理由を見つけることは難しくありません。その違いを生んだ決定的な理由は、インターネットにあります。「秋葉原事件」(中島岳志著、朝日文庫)によると、2006年8月に加藤はネット掲示板にのめり込み、「本音で厳しいことを書いた」ところ、掲示板の仲間と一気に関係が険悪になり、掲示板から人がいなくなり、加藤はひどい自己嫌悪に陥ります(自分に対して悲しみます)。一方、秋葉原通り魔事件の直前の2008年5月、同じく加藤はネット掲示板にのめり込みますが、この時は掲示板になりすましが出て、管理人になりすましを排除するように要求しますが、受け入れられず、極度にイライラしています(他者に対して怒っています)。この程度の差で、自殺か無差別殺人の違いとなったのなら、本当にくだらないですが、人間の心理とはそんなものだと思います。

同時に、加藤のように切羽詰まった状態になっても、無差別殺人をせずに、自殺していった多くの方たちの心情も、加藤の心情に共感した者たちよりも多くの方たちが考えてあげてほしいです。