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なぜカンボジアPKOの警察派遣は失敗したのか

カンボジアPKOの警察派遣についての本である「告白」(旗手啓介著、講談社)によると、カンボジアから帰国した74名の隊員(1名はPKO中に死亡)は1993年7月、各自で報告書を作成し、階級ごとに業務検討会を行っています。その検討会の内容を総括した8枚の非公開の内部文書の一部を紹介しています。

結論としては、事前研修と事前通知の不徹底こそが最大の失敗の要因だった、となります。

75名の日本人文民警察官のほとんどは国際経験もなく、紛争地に対する特別な訓練も積んでいない各都道府県の「お巡りさん」でした。事前研修は2回に分けて10日間でしたが、そのほとんどが制服の採寸や各保険の説明、予防接種などの事務連絡でした。実質的なカリキュラムは高尾山での健脚訓練、簡単なクメール語や英語の語学研修、現地で使用するトヨタ四輪駆動の車両訓練でした。現地の治安情勢の詳しい説明や現地で流通している武器の種類や性能、銃声がしたときの対処法、事故・負傷時の救急訓練などは一切行われていません。

一方、他国の文民警察官は軍警察や軍事訓練を受けた警察官で構成されていました。スウェーデン警察は、自国のPKOレーニングセンターで2週間にわたり、国連の文民警察専門の訓練を積んでいました。カンボジアの政治状況や治安情勢や国民性、また地雷の危険性や対処法、救急訓練がカリキュラムとして組まれていました。また、インドネシア文民警察官は3週間のジャングルでのサバイバル訓練を受けています。

また、日本政府は日本の法律に従って、文民警察官は行動するように命令していました。具体的には、「なぜカンボジアPKOで警察も派遣したのか」に書いたPKO協力法案の5原則「紛争当事者間の停戦合意の成立」があるときに活動して、それが満たされない場合は「撤収」することになっていました。しかし、現地では、本国の法律がどのように規定されていようと、国連の指示に従わざるを得ない現実があります。

参加警察官の総括では「今後は国連の指示にそえるように法律を改正するか、撤収するかは国の判断によるが、いずれにしても文民警察官が板挟みにならないように措置すべきである」となっています。文民警察を75名もの大規模でPKO派遣した例はカンボジア以後にないので、事実上、日本政府は「法律の改正」ではなく「文民警察官のPKO撤収」を選んでいます。

「告白」は非公開の総括記録の最後に、次のような多数意見を紹介しています。

「今後、PKOで派遣される場合には、死ぬかもしれない、とはっきり事前に伝えておいてほしい。本人、家族に心構えができる」

100万以上もの虐殺が起こって、20年以上もの内戦が続いていたカンボジアに治安維持のために派遣されるのに、死ぬ可能性があることも、日本人警察官たちは事前に認識していませんでした。そんな基本的な情報すら伝えていないほど、準備不足だったのです。

カンボジアPKO活動が開始したのは1992年3月です。その3ヶ月後の6月15日になんとかPKO協力法案が成立してから、ようやくカンボジアに派遣する警察官の人選を始めます。カンボジアPKOは、史上最大のPKOと呼ばれるほど大規模な国連活動です。そんな重要な任務になるのなら、PKO協力法案が成立してから人選するのではなく、それ以前から人選を始めておくべきでしょう。まして、他の国からの文民警察官はとっくの前に人選を済ませて、事前研修も終わらせて、現地で働いているのです。

6月18日にカンボジアPKOの日本人文民警察官のリーダーである警察庁山崎裕人が任命されます。後の記事にも述べるように、この山崎のカンボジア認識は、かなり甘いと言わざるを得ないのですが、「告白」では取材者に遠慮したのか、取材者を客観的にみる能力が欠けていたのか(日本のほとんどのジャーナリストはこの能力が欠けています)、その指摘は一切ありません。

山崎はPKO文民警察の隊長に任命された時、「名誉なことだ。功名心がくすぐられた」と感じたそうです。「なにかあれば銃で殺人が起こるようなカンボジアで、ろくに武器も持たない警察官が行っても、治安維持などできない。どうすればいいんだ」という考えがまず浮かばなければいけないはずなのですが、そんな発想はなかったようです。

1992年7月1日、山崎はカンボジアに外務省や防衛庁総理府の官僚たちとともに、現地調査に来ます。9ヶ月も国会で審議して、ようやく成立したPKO協力法案を無駄にするわけにはいかない政府としては、「各派間の大規模な戦闘が再開されているわけではない」(これは事実ですが、逆にいえば、小規模な戦闘はそこかしこで起こっていました)として、停戦の合意はできていると結論づけています。もっとも、日本政府調査団の15名は、治安が安定して、物資も豊富な首都プノンペンばかりを5日間視察していただけです。

警察官僚の山崎も「悲観的な材料はすでに報道で出つくしているのだから、政府が自衛隊文民警察官に積極的であるなら、それを補完する視察結果を強調すべき」と考えて、「日本警察の威信を高めることになりこそすれ、全くマイナス要因はないと考えらえる」と報告しています。後の記事に示すように、現実には、カンボジアに派遣されたことで、日本警察は威信を低めこそすれ、高めることにはなっていません。

カンボジアに派遣される文民警察官は当初、警視庁や大阪府警などの大規模府県からだけ隊員を選抜する案もあったようです。短期間に紛争地に適した人材を選ぶのなら、それが正解だったでしょう。しかし、日本警察としての初めての人的国際貢献の栄誉は、全ての都道府県が等しく分かつべき、との山崎の考えで、全ての都道府県から警察官が採用されることになりました。ここでも山崎の呑気さが目立ちます。75名の人員が決まったのは8月中旬。派遣までに2ヵ月を切っていました。

カンボジアPKOでは政府もマスコミも自衛隊ばかり注目して、文民警察官はろくに注目していませんでした。自衛隊は戦闘に巻き込まれることがないように、プノンペンに近く、なにかあったらベトナムに逃げられるタケオに駐屯するように、日本政府は何度も交渉したそうです。しかし、文民警察官の派遣先については、なんの交渉もしていません。理由の一つは、文民警察官は複数の班に分かれて、それぞれ別の派遣先で勤務することになっていたので、交渉しづらかったからでもありますが、最大の理由はやはり文民警察官への関心の低さです。

なお、山崎はUNTACの明石代表やカンボジア文民警察官のリーダーのルースから、有権者登録の開始の10月1日までには日本の文民警察が来てほしい、と強い要請を受けて、山崎自身もそれを強く政府に要求していましたが、「霞が関の論理」で2週間遅れの10月14日に現地入りします。既にカンボジアPKOが活動しはじめて8ヶ月目でした。

カンボジアPKO文民警察の実態」に続きます。