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なぜカンボジアPKOで警察も派遣したのか

1992年から1993年に日本が始めて国連のPKO(平和維持活動)に参加しました。カンボジアでの民主選挙を実現するため、日本の自衛隊が派遣されたことは私もよく知っています。しかし、カンボジアでのPKOのメンバーとして、自衛隊員の他、警察官がいたことは知りませんでした。当時、私はニュースを見ていたので、一度は知っていたのかもしれませんが、忘れていました。カンボジアPKOで日本人に死者が出たこともうっすらと覚えていますが、自衛隊員だと勘違いしていました。実際は警察官であることを「告白」(旗手啓介著、講談社)を読んで、認識しました。その本を読んで、改めて日本の外交の拙さを痛感したので、この一連の記事を書きます。

カンボジアPKOは軍事部門約1万6千人、文民部門約4700人から成ります。軍事部門のうち約1200人が日本の自衛隊員です。文民部門のうち文民警察は約3500人で、そのうちの75名が日本人になります。この75名の日本人の多くは、海外勤務の経験もない各都道府県に所属する「普通」の警察官です。

PKO文民警察部門が本格的に加わったのは1989年のナミビアの約1500名からで、1992年当時、それほど歴史はありません。

日本外交のトラウマ」と「湾岸戦争のトラウマ」に書いた理由から、日本政府はカンボジアPKO派遣に徹底的にこだわりました。当然、野党や世論は猛反対し、1991年9月に提出されたPKO協力法案は1992年6月にようやく成立します。UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)は既に3月から活動を開始しており、各国の軍隊や警察はカンボジア入りしていました。

PKO協力法案の27の条文は、ほとんど自衛隊に関するもので、文民警察に関しては第3条第三号の「チ」と「リ」しかありませんでした。国会での議論も、ほぼ全てが自衛隊に関するもので、マスメディアも世論も警察の派遣には全く注目していません。この徹底したPKO警察官への無関心が、失敗の大きな原因の一つです。

PKO協力法案には以下の5原則がありました。

1、紛争当事者間の停戦合意の成立

2、紛争当事者の受け入れ同意

3、中立性の厳守

4、上記の原則が満たされない場合の撤収

5、武器の使用は必要最小限

1991年10月23日に、内線を続けてきたプノンペン政府、シアヌーク派、ソン・サン派ポル・ポト派はパリ和平協定に調印し、停戦合意しています。これで1の「紛争当事者の停戦合意の成立」の条件は満たしているのですが、現実にはポル・ポト派は停戦違反を繰り返して、プノンペン政府軍との戦闘が頻発していました。つまり、1の条件が満たされていないと判断する余地ができ、そうなると4の「撤収」につながってしまいます。しかし、カンボジアの現場を放棄して、勝手に撤収などできるわけがない(国際法上もそうであるとUNTACから後に言われる)ので、これがPKO警察官のほぼ全員に「上の連中は現場を分かっていない!」との不満の声を上げさせることになります。

日本の政治家もマスコミも国民も自衛隊のことばかり考えていたのだから、警察なんてカンボジアに派遣することなかった、という考えもあるでしょう。実際、カンボジア以後に自衛隊は多くのPKOに参加していますが、警察庁は1999年に東ティモールに3名文民警察官を派遣した以外、一切警察官を派遣していません(と「告白」には書いていますが、wikipediaの「自衛隊カンボジア派遣」によると、2006年の東ティモール文民警察官は参加しているようです)。

では、なぜ日本はカンボジアPKO文民警察を派遣したのでしょうか。その根本的で重要な問題を、「告白」では、ほとんど考察していません。当時の駐カンボジア日本大使の今川の下記のような「下衆の勘繰り」を載せているだけです。

自衛隊の海外派遣は、やはり反対が大きいだろう。自衛隊だけ送るとなると、目立ちすぎる。だから、それをなんとか中和するために、丸腰で武器を持たない警察官も送ったのではないか」

「なぜカンボジアPKOの警察派遣は失敗したのか」に続きます。