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胎嚢を見せる産科医こそ倫理観に優れる

前回の記事に書いたように、キリスト教国と比べると日本は堕胎に極めて寛容です。

だから、6月9日の朝日新聞の耕論には、朝日新聞の購読を止めようと思うほど、怒りが湧いてきました。とりわけ腹が立ったのは、次の文章です。

「中絶を罪悪視する医療者もいて、冷たい視線を向けられたり、取り出した胎嚢(たいのう)を見せて『忘れないように』と説教されたりという話も聞きます。『ケア』の対象であるべき中絶が『罰』とされているのです」

「中絶を罪悪視する医療者もいて」とありますが。「中絶を罪悪視する」のは当然ではないでしょうか。中絶とは、胎児の殺人です。罪悪視しない医療者がいたとしたら、それこそ問題です。

「取り出した胎嚢を見せて『忘れないように』と説教されたりという話も聞きます」とありますが、そういう産科医こそ、倫理観に優れていると私は知っています。私は医療職なので、人工妊娠中絶が産科にとって「ドル箱」であることを知っています。金儲け主義の産科医なら、中絶希望者を歓迎して、本人に事情をろくに聴くこともしません。まして本人に反発される可能性を犯してまで、説教などしません。本人に反発される危険性を犯してでも、命の大切さを知らしめるために胎嚢を見せている産科医こそ、「本当は中絶などしたくない」「お金のために医者になったわけではない」と職業倫理を重視していることくらい、医療職でなくても、分かるのではないでしょうか。

「『ケア』の対象であるべき中絶が『罰』とされているのです」という表現も、気になります。キリスト教徒である西洋人は、たとえ中絶賛成派であっても、中絶に罪悪感を持っています。罪があれば、原則、罰も伴います。中絶が道徳的に全く問題なく、罰など与えられるべきでない、と吹っ切れている西洋人に、私は会ったことがありません。この記事の著者は「日本は」「日本では」とやたらと海外比較していますが、キリスト教の先進国の国民感情を正しく把握しているとはとても思えません。

「胎嚢を見せるのは母だけでなく、父も見せるべきだ」なら分かりますが、「母も見せるべきない」は、根本的な倫理観が間違っているとしか思えません。同じ主張がキリスト教国でされたなら、この記事の著者が殺される可能性もあるのではないでしょうか。