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境界知能で精神病院に40年間住む女性

その女性患者さんは、私が初めて会った時は60代半ばでしたが、見た目は70代半ばくらいに見えました。ただし、かつては美人だったのだろう、という面影はありました。

主病名は双極性障害躁うつ病)となって、長年、バルプロ酸という気分安定薬躁うつ病の薬)を使っていました。私も前医からのバルプロ酸を継続していたのですが、3ヶ月に1回の血液検査で毎回、汎血球減少であることが気になり、担当になってから半年目くらいにバルプロ酸を止めて、ラモトリギンに変更すると、汎血球減少がウソのように治ってしまい、前医たちの推定30年間のバルプロ酸継続使用、つまりは30年間の医療ミスに呆れました。この汎血球減少治癒に合わせて、体重も30㎏台前半だったのが、40㎏台前半と10㎏程度上昇し、体力も回復しました。

この患者さんが始めて入院したのは20代半ばです。そこから入退院を繰り返し、20代で結婚、出産、離婚を経て、30才くらいからは同じ病院に入院し続けます。「精神病院の女性長期入院患者さん」に書いたように、長期入院開始の前には、自身の子どもは親戚に育てられており、以後、本人は子どもと1度も会っていないはずです。私も本人から子どもの話は一度も聞いたことがありません。

この患者さんの病歴として特徴的なのは、双極性障害躁うつ病)の診断根拠が書かれていないことでした。病歴、というか入院した理由としては「家事をろくにしない」「子育てを放棄する」「仕事やアルバイトはすぐ止める」「すると言ったことをしない」「約束を守らない」でした。どれも精神疾患の症状というより、本人の能力や性格の問題です。

実際のところ、60代半ばからの本人に私は4年間毎週診察していましたが、本人の精神疾患を疑ったことは、一度もありません。むしろ「この人、本当は精神疾患でないのに精神病院に40年近くも暮らしているんじゃないのか」とずっと思っていました。なお、「この人に精神疾患はないだろう」と私が考えていた長期入院患者さんは他にもいました。

精神疾患でないのに、なぜ精神病院に何十年も入院しているのでしょうか?

その答えは「家族が手に負えないから」「一人暮らしもできないから」です。

(でも、精神疾患がないなら、精神病院に入院できないでしょう?)

そう思われるでしょうが、「精神科詐欺」にも書いた通り、精神科の診断は全てあいまいです。特に双極性障害なんて、その気になれば、ほとんど全ての人に診断できます。気分の波なんて誰にでもありますから。「家事をろくにしない」「子育てを放棄する」母に対して、怒らない父や親戚はいません。当然、家族ケンカになり、ケンカになれば感情も爆発します。こうなれば、なおさら双極性障害があてはまってしまいます。

おそらく、最初に本人を精神科に連れてきた人はこう思っていたのではないでしょうか。

(なんでこの女、自分でするって言ったことをしないの? 誰でもできる簡単なことだよ? できないことをやってほしいんじゃないよ? やらないと怒られると分かっているのに、なんでやらないの? どう考えても病気だよ)

この女性長期入院患者さんに限っていえば、それは精神疾患ではなく、知的障害に近かったと思います。高校卒業していたので知的障害ではなかったのでしょうが、IQ70~85の境界知能が本人の正しい診断だったと思います。

だから、本来、この患者さんが暮らすべき場所は精神病院ではなく、境界知能の方たちのためのグループホーム(施設)でした。しかし、40年前は境界知能という言葉すら普及しておらず、まして境界知能の方たちのためのグループホームもほぼなかったはずです。だから、双極性障害として精神病院が40年間ほども受け入れることになってしまったのでしょう。

この患者さんで忘れられないエピソードが、汎血球減少が治り体重が10㎏くらい増えた頃に起こした自殺未遂です。洗剤を飲んで自殺しようとしたので、隔離室に入れられました。翌日、私が診察して、本人が冷静さを示し、反省していると述べるので、すぐに隔離解除を命じました。

汎血球減少が治り、健康を取り戻したはずなのに、なぜ突然自殺しようとしたのでしょうか。

その答えは「健康になり、思考力も向上したので、情けない自分の人生を考える能力も回復し、自殺したくなった」だと私は判断しています。

だから、自殺未遂した翌日からラモトリギンは100㎎から最大量の200㎎に増量しました。病状を抑えるために増量したのではありません。上記の通り、そもそも本人に精神疾患はないと私は判断していますから。薬を増やした理由は、本人に自分の人生を深く振り返らせないためです。精神科のほぼ全ての薬は思考力を落とす副作用があります。もっとも、ラモトリギンはその副作用が小さい安全な薬ではあります。

もしそれでも自殺未遂を繰り返すなら、もっと思考力を落とす薬に私は変えていたでしょうが、それ以後、本人が自殺未遂をすることは一度もなかったので、薬はそのままとしました。

自殺未遂はあったものの、本人は私を含めた職員のほぼ全員に好かれる明るい性格でした。病状も安定していたので(より正確には病気ですらなかったので)、病院から徒歩3分くらいの場所にあるコンビニによく買い物に行っていました。このように近くのコンビニくらいまでの短時間なら、病状の安定している患者さんに外出を認めている精神病院はよくあります。

彼女について、自殺未遂の次によく覚えているエピソードは、若い男性看護師さんの電話番号を聞いていたことです。私がナースステーションでカルテ入力していると、彼女がナースステーションの開いた扉にもたれかかり、こう言ってきたのです。

本人「〇〇さ~ん、今日こそ、電話番号教えてよ~」

看護師「え~。困るな~。僕、好きな人いるからさあ」

本人「好きな人ってことは彼女じゃないんでしょ?」

看護師「まあ、そうだけど」

本人「じゃあ、いいじゃん。ねえ、教えて~」

本人はいつも20才以上年下の私に敬語を使っていました。まさか、男性看護師に対してナンパごっこしているとは、その時まで知りませんでした。

それにしても男性看護師の電話番号なんか聞いて、どうしたいのでしょうか。病院から看護師宅に電話するつもりなんでしょうか。本人は本当にそんなことしたいのでしょうか。

いえ、多分、本当に電話したいのではないでしょう。人生の半分以上を精神病院で暮らすことになりましたが、人間なので恋愛欲はあります。恋愛相手は男性医師でも良かったのかもしれませんが、堅物な私だと不適切と判断されたのでしょう。そこで、より話やすい男性看護師と恋愛ごっこをしていた、と推測しています。

このように精神病院の長期入院患者さんが同じ入院患者さんや病院職員に恋愛ごっこ、あるいは本当の恋愛に陥ってしまうことは珍しくありません。ある若い女性看護師に恋をして、自殺まで考えてしまった男性長期入院患者さんは「先生、殺してください」に書きました。