未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

倫(徳、善、愛、悪)、知(理、正)、心(欲、金、愛、嫌)、法(政)、力(兵、義)、食(老、病、死)

現代社会で、人を動かすものは倫、知、心、法、力、食の順だと考えます。人が動かざるを得ない順と言ってもいいかもしれません。同時に、人として大切なものの順とも言えます。

( )内にはほぼ同じ意味の漢字も付け加えています。「倫と悪が同じ」とは意味不明なので、この解説文も必ず一緒に読んでもらうようお願いします。下記の解説文を読まないと誤解が生じ、これを権威とするなら、悪用もされてしまいます。

 

倫(倫理)と徳(道徳)はほぼ同じ意味のはずです。どちらの漢字を使ってもいいのですが、私の印象だと「徳」は大衆意思で決まるもの、伝統的に守っているものであり、「倫」は普遍的なもの、自分を律するものなので、倫を代表させています。善もほぼ同じ意味です。

愛は、倫理の根源的なものだと私は考えています。自然界において、倫理なんて存在しません。人間社会があるから、倫理が存在します。その人間社会から、なにをもとに倫理が存在しているのでしょうか。その答えは一つではありません。幸せ、金、物、数、環境、能力、健康、運など、倫理を作り上げる多くの要素の中で、最も大切な要素は愛だと私は推測します。この「愛」は「仁」や「情」と置き換えてもいいかもしれません。

ここで理想とされる「愛」は、エーリッヒ・フロムが定義する「愛」が一番近いです。「愛する」ことは「配慮、応答、尊重、理解」をともないます。決して「利己的」ではなく、人は簡単に人を愛せるものではないことを知るべきです。

悪はもちろん、倫理の対義語です。悪を憎む心が、倫理と同じ意味になるという趣旨です。愛よりも、悪を憎む心の方が人を動かすものになると私は考えます。だから、悪を憎む心の危険性も知っておくべきです。全ての悪人に同情の余地があることは知らなければなりません。

 

3番目の心(感情)よりも2番目の知(理論)で人は動きます。というより、人は心で納得できなくても、理論で正しいと導かれたら、社会の中の一人として動かざるを得ません。

もう一つ重要なことは、この理論よりも、倫理が人を動かす、という点です。理論は万能ではありません。どんなに理論的に正しくても、心が納得しなければ、人は動かないこともありえます。しかし、倫理は理論や感情を超越して重要になり、人を動かします。

たとえば、一般に、子育てで最も重視されるものはなんでしょうか。「感情に振り回されない理性的な思考を身に着けてほしい」「世界で通用する感性を持ってほしい」など、いろいろあるでしょうが、「他人のために生きることが自分の生きがいになってほしい」などの倫理的な生き方を最も強く親は望むはずです。それは子どもに対してだけでなく、どんな他人に対しても、自分に対しても、理想の人間の姿だからです。

 

言うまでもなく、心も人を動かします。どんな時代であれ、まず感情により動物は動き、感情のままに生きていたら好ましくないので理性で制御されます。人間を動かす感情は欲と呼べるでしょう。その欲の中でも、社会で特に強いものが金銭欲と愛情欲だと思います。お金と愛情は、どんな人にとっても重要です。

しかし、個人の人生で、莫大なお金が必要でないと知ることも極めて重要です。たとえば、現代日本で、年収1千万円もあれば、4人家族でも十分贅沢できます。子どものいない夫婦なら年収600万円もいりません。子どものいない世帯に対しての累進課税はもっと強めるべきです。

愛は唯一、上の中で2回使った漢字です。愛は極めて価値のある心の動きです。既に説明した通り、倫理の根源として愛が存在するくらいです。

それにもかかわらず、特に男性の女性に対する愛情は、性欲(悪いもの)と同一視されすぎていて、少子化など、社会的に大きすぎる弊害が出てしまっています。21世紀前半の日本に生きたせいで、この弊害に人類史上最大に苦しめられた男性の一人として、私はこの害を特に強調しておきます。

嫌いという感情は、しばしば、好きという感情以上に人を動かしてしまいます。人間は愚かなのか、上記の通り同情の余地が全くない悪人は存在しないにもかかわらず、誰からも嫌われる人は存在してしまいます。嫌う心の危険性も人は知らなければいけません。

 

法は問答無用で人が従わなければいけないもの、と多くの人が考えています。しかし、現実に全ての法律を厳密に守っている人などいません。そもそも人は法を漠然としか知らないので、法に常に従っているわけでもありません。法が間違っていることもあります。法を決める政治も同様に間違います。「完全な中立などありえない」でも批判したように、難しい思考も放棄して、できるだけ政治と関わらず生きていきたいと考えている人は、特に日本で多いです。

法は常に従わなければならないと考えている警察や弁護士や裁判官がいたら、人として大切なところが欠けていると考えていいでしょう。

 

力(兵)を食よりも重要としているとはなにごとか、とお叱りを受けるかもしれません。孔子は信、食、兵の順で政治において重要だと主張しています。しかし、個人として、社会全体として、人を動かす上で、力は現実的に必要になるでしょう。力が不要となる未来を期待しています。

国家の暴力機関として、軍隊(兵)や警察があります。軍隊も警察もない社会が理想ですが、現在までのところ、軍隊はともかく、警察がない国家は実現できていません。また、ナチスドイツや戦時中の日本やソ連の横暴が、力なしで、話し合いだけで止められなかったのも歴史的事実です。ガンジーの非暴力でさえ、非協力と不服従が伴っています。ガンジーは非力だったわけではなく、力強く抵抗していました。

悪と戦うため、正義を元にした力は許容されるべきです。「どちらに正義があるかは決められない」と信じ切っている人は「『あらゆる思想の正誤は絶対的に決められない』とは絶対的に決められない」などの記事を読んでください。

 

食も人が生きるために重要です。同様に、老、病、死を避けるために人は動きます。しかし、社会福祉が発達して以後、特に世界の平均寿命が70才を越える現在、これらはそれほど人を動かす動機になっていないと私は考えます。どんなに医学が発達しても、老、病、死は避けられません。「人間は死んだら、なにもできない」と医者は死を避けようと患者さんにやたらと強要しますが、単に生き延びることよりも大切な価値がいくらでもあることを忘れています。

上記の通り、法が万能と勘違いしている弁護士、検察官、裁判官は社会から排除されるべきように、命がなによりも大切と勘違いしている医者は社会から排除されるべきです。