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完乱と十牛図

悟りを開く10段階を表した十牛図です。解釈は「禅画を読む」(影山純夫著、淡交社)を引用していします。

1,尋牛。仏性の象徴である牛を見つけようと発心したが、牛は見つからないという状況。

2,見跡。経や教えによって仏性を求めようとするが、分別の世界からはまだ逃れられない。

3,見牛。行においてその牛を身上に実地に見た境位。

4,得牛。牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます。

 

あらら。10段階の4番目で、もう目的の牛を捕まえてしまいました。

5,牧牛。本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要。慣れてくれば牛は素直に従うようにもなる。

 

おいおい。既に悟りを得ちゃいましたよ。まだ半分です。ここからなぜ続くんですか。

6,騎牛帰家。心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もない。

 

5との違いがよく分かりません。この段階、必要だったんでしょうか。

7,忘牛存人。家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる。

 

ちょっと! 牛忘れてどうするんですか。なんのために捕まえたんですか? 訳分かりません。

8,人牛倶忘。牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる。忘れるということもなくなる世界。

 

ついに真っ白になっちゃいました。無我の境地を目指す仏教らしいですね。あれ? でも、ここからさらに2段階も残っています。普通に考えたら、これを最後にすべきでしょう。

9,返本還源。何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る。

 

無為自然でしょうか。でも、ただの自然なら、牛捕まえなくても、見えますよ。というか、十牛図と言いながら、途中から牛がどうでもよくなっています。

10,入鄽垂手。悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある。

 

大乗仏教は悟りを開いたら、それを広めることに価値を見いだしますからね。それは分かるにしても、悟りを開いた自分がなぜデブっているんですか。仙人みたいに霞食って生きていたはずなので、痩せてないとおかしいでしょう。

 

十牛図」を初めて読んだ時、私は20代後半だったと思いますが、その感想は上記の通りです。また「これが悟りを開くまでに順番に通る道と思わないし、10が最終到達点とも思わないが、悟りを開くまでにこの10段階を通ることは理解できる」あるいは「人生、こんなものだよな。悟りを開いていない自分でも、既に全部通っている気がする」とも考えました。

 

私の人生は、現在も含めて、十牛図の1~4を繰り返しています。同時に、大学生から家庭教師のバイトをしていたので、悟りを開いていないのに10の「教育」もしています。

世の中には牛(技能)が無数にあると考えると、十牛図はより納得できます。一つの技能を習得しても(5の段階に達したとしても)、他にも習得すべき技能はいくらでもあります(別の視点では1~4の段階にあります)。一部は5~10の段階に達していても、ほとんどは1~4の段階なので、気分としては1~4を繰り返しています。

そして、習得した技能はいつか自分のものとなり(6の段階になり)、その技能を忘れたり(7の段階)、無我の境地に達したり(8の段階)、その技能によって世界の見方が変わったり(9の段階)、その能力を他の方に教育したり(10の段階)します。

悟りに至るまでの段階をたった10枚の絵で表現することはできないでしょう。とはいえ、強いて絵で表現したら、上のような10段階になるのも理解できなくはありません。

人生においてゴールは、別の観点でのスタートになります。悟りを得てもゴールではなく、無我の境地になっても、自然をあるがままに受け入れても、ゴールではありません。自分では悟りを得たつもりで、他の多くの人にも権威にも認められても、実際はまだまだ先があります。

私が「完乱(perfect chaos)」という造語を考えついたのも、この十牛図について考えていた時だったと思います。十牛図に訳分からないと思う一方で、妙に納得もしていました。