「神と自分を並べる思考」の謎がようやく明確になりました。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は「神と自分を並べる思考」の根源でした。この西洋人の思考様式とデカルト哲学の両方を僕は知っていましたが、それを明確につなげていませんでした。
つなげていなかった理由の一つは「我思う、ゆえに我あり」は神の非存在証明と言えるのに、それを言ったデカルト張本人が神の存在証明をしていることです。普通に考えたら、こんな矛盾を許しているから、哲学は「役に立たない」「机上の空論」と批判されるはずです。一方で、この矛盾、あるいは二律背反に切り込んだ人物が哲学者のカントだと最近知りました。
カントの哲学の最高傑作は、下記のアンチノミー(二律背反)でしょう。
通常、二律背反は「一方が成り立つなら、もう一方は成り立たない命題」という意味です。しかし、カントは「二つの相反する事柄が同時に存在し、どちらも正しいように見える状況」や「相反する二つの命題の一つから理論的につなげていけば(演繹を続けていけば)、もう一方の相反する命題が証明できてしまう」として、次の四つのアンチノミーを挙げています。
- 世界の空間と時間に関するアンチノミー:
定立:世界は時間的に始まりがあり、空間的にも有限である。
反定立:世界は時間的に始まりがなく、空間的にも無限である。
- 単純な実体に関するアンチノミー:
定立:世界に存在するものは、それ以上分割できない単純な実体から構成されている。
反定立:世界に存在するものは、分割不可能な単純な実体を含まない。
定立:世界には自由意志が存在し、自然法則を超えた原因が存在する。
反定立:世界には自由意志は存在せず、すべては自然法則によって決定されている。
- 必然的な存在者に関するアンチノミー:
定立:世界には、偶然的な存在者だけでなく、必然的な存在者も存在する(神など)。
反定立:世界には、偶然的な存在者しか存在しない。
カントは「純粋理性(真)批判」「実践理性(善)批判」「判断力(美)批判」「物自体」「表象」「現象」「感性」「悟性」「理性」「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」「アプリオリ(真理)」「アポステリオリ(経験)」「分析判断」「総合判断」「定言命令」「仮言命令」といった意味不明な専門用語を連発します。私はそれらをなんとか理解したと思いますが、「人間が普通に考えていることを難しい言葉で説明しただけじゃないか」と長年思っていました。
カント哲学の到達点にあたる上記の四つのアンチノミーの凄さをはっきり認識したのは、ここ数ヶ月です。20年から10年ほど前、純粋理性批判の解説本を何回か読んだ時、私も上記の四つのアンチノミーに目を通したに違いないのですが、私の頭は既に爆発していたのでしょう。ほとんど記憶に残っていません。
今回、改めて勉強して、「3. 自由と自然法則に関するアンチノミー」と「4. 必然的な存在者に関するアンチノミー」は「神はいるのか」「この世の出来事は全て必然なのか」「自分の人生は運命に流されるだけなのか」「自分の意思も作られたものではないのか」の答えになっていることに気づきました。
つまり、「神はいる」「神はいない」「神はいるかもしれないし、いないかもしれない」「神がいると証明できる」「神がいないと証明できる」「神がいるとは証明できない」「神がいないと証明できない」の全部が正しく、お互いに矛盾もしていない、とカントは証明したのです。確かに、古今東西の全ての時代と場所で、上記のそれぞれの意見を信じている人はいて、かつ、社会は成り立っています。
同様に、「この世の出来事は全て必然である」「この世の出来事は全て偶然である」……も言えるわけですが、長くなるので省略します。
「1. 世界の空間と時間に関するアンチノミー」と「2. 単純な実体に関するアンチノミー」は根源的な自然観に関する理論です。2025年現在だと、「1」については「世界は時間的に始まりがあり、空間的にも無限である」と定立と反定立の折衷案が正しく、「2」については「世界に存在するものは、それ以上分割できない単純な実体から構成されている」と定立が正しいとなっていますが、カントにならえば、この正しさもいずれ崩れるのかもしれません。
同時に、「自然科学者ですら、こんな根源的な問題を考えつづける価値があるのか」とのカントの提言も無視できません。
ところで、カントは「人間はどう生きるべきか」と「社会はどうあるべきか」について、それぞれ「実践理性批判」と「永遠平和のために」を書いていると今回改めて知りました。それについては、次の「未来視カント」の記事で紹介します。