未来社会の道しるべ

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資本主義の矛盾を解決するのは共産主義ではなく累進課税である

マルクスはお金の価値は本質的に労働にある、と考えていました。だから、単にお金を出しただけの資本家の利益(取り分)は「余剰価値」と見なし、「本来存在しないもの」もしくは「存在すべきでないもの」と否定しました。なぜなら、余剰価値は労働の対価ではないからです。

現在の株高がバブルであると警報を発しない経済学者は社会に不要です」で「お金をどこかに置いていたら、自然とお金が増えていた」という魔法は存在しない、と私は何度も強調していますが、上のマルクス理論とほぼ同じことを言っているだけです。

有史以来、この矛盾は多くの知識人が疑問に感じてきました。その知識人の一人は、世界最大の宗教の教祖であるイエスです。

「なぜ物を作る人(農家や工業人)より、物を売ったり買ったりする人(商売人)がお金を儲けるんだ。さらに言えば、物を売ったり買ったりする人よりも、お金を売ったり買ったりする人がさらに儲かるのは明らかにおかしい。みんな好き勝手にしていたら(自由経済であれば)、本来、なんの価値も生み出していない金融業者が莫大に儲けて、世の中で楽してしまう。誰かなんとかしてくれ」

有史以来、ほぼ全ての人類が気づく社会の欠陥です。だから、世界中どこでも、商売は卑しい職業とみなされています。

たとえば、「商」は昔の中国の王朝の名前で、もっと広く使われている言葉に替えれば「殷」です。殷王朝の後の周王朝の時代、当然ながら、かつての殷王朝の人たちは役人からはじかれます。エリートだった殷王朝の人たちが今更、農家や工業人になれるほど肉体労働ができるわけもありません。頭脳を使って生活していく上で、最も好ましい生き方が「物や金を売ったり買ったりする仕事」です。つまり、「商人」です。周王朝時代の中国も「物や金を売ったり買ったりする仕事」は蔑まれており、一般の人は就きたがらなかったことも、殷王朝の人たちが商人になった理由です。ともかく、「物や金を売ったり買ったりする仕事」は商(殷)王朝の人たちが多かったので、それらの仕事に従事する人たちを商人と呼ぶようになった、という話は、俗説かもしれませんが、いろんな教養本で読んだ記憶があります。

現在、47才の私は中学生の頃、日本の江戸時代の身分制度として「士農工商」を習いました。ここでも、やはり商人が一番下です。ただし、現在の学説では、江戸時代の身分制度を表す言葉として「士農工商」は、必ずしも適切ではないそうです。

一方、西洋でも同様に、商人は蔑まれていました。上記の通り、特にイエスが憎んでいた職業であったため、キリスト教徒はなりたがりません。だから、キリスト教徒でないユダヤ教徒が多く商人になりました。だから、「ユダヤ人≒金持ち」のイメージができました。なぜなら「ユダヤ人≒商人≒金持ち」だからで、さらに言えば「金持ち≒憎まれる」なので、ユダヤ人差別に拍車がかかりました。

マルクスの「余剰価値」の否定の話に戻ります。繰り返しますが、資産家は体を使って、働いていません。多くの労働者が働いて作り出した利益を搾取することによって、お金(余剰価値)を得ています。しかも、その資産家個人の利益(給与)が往々にして、労働者個人の利益(給与)より遥かに大きかったりします。それは道徳的におかしすぎます。マルクスでなくても、誰が考えても、おかしいです。

「それは誤解だ。資本家だって一人しかいないわけじゃない。世の中には多くの資本家がいる。その中で、資本家たちも競争しているんだ。資本家が理不尽に高い利益を工場の労働者たちから搾取していたら、他の良心的な資本家が現れて、適正なわずかな利益を工場の労働者から得るはずだ。そうしたら、自由市場だと、どちらの工場の製品が売れるだろうか。資本家が理不尽な高い利益を搾取している商品は、当然ながら、資本家が適正なわずかな利益を得ている商品より、高くなる。アダム・スミスミクロ経済学に従えば、同じ品質なら、安い商品の方が売れるに決まっている。結果、理不尽に高い利益を得ている資本家は淘汰されていくはずだ」

理論上は、このマルクスへの反論が正しくなります。しかし、世の中には、このマルクスへの反論通りいかないことが多いのも事実です。つまり、資本家と労働者なら、やはり資本家の方が金持ちです。統計的にはマルクスの指摘(資本家が理不尽に金持ちになる説)が、マルクスへの反論(資本家がわずかな給与しか得ていない説)よりも正しいことが証明されています。

話は少し逸れますが、零細自営業などは資本家と呼べないので、忙しい割に、労働者並みに貧しかったりもします。ただし、一般の労働者と異なり、上司がいないメリットもあるので、零細自営業が労働者と比べて不幸とも限りません。この零細自営業の問題も、資本主義社会で無視できない数と規模で、どの国でも存在します。ただし、無視できない数と規模と書いていながら、今回は主な論点から逸れるので、無視させてもらいます。

私は資本家ではありませんが、ここで、私なりに資本家の「余剰価値」の弁護をさせてもらいます。

そもそも世の中の価値なんて、人間の主観で決まる、いいかげんなものです。たとえば、スポーツ競技なんて、本来、なんの役にも立ちませんよね。どのプロ野球チームが勝とうが、どの選手が金メダル取ろうが、誰が0.01秒早くゴールしようが、当事者以外にとって、場合によっては当事者にとっても、どうでもいいことですよ。それによって、世の中が少しでも良くなるんですか? なりませんよ! え? 明日から生きる気力が出てくるって? 生きる気力を出す方法なんて、他にいくらでもあるでしょう! 甲本ヒロトが歌っていたように、「世界中で定められたどんな記念日なんかより、あなたが生きている今日はどんなに意義があるのだろう」と思って、毎日、生きる気力でも出してください!

話がまた逸れました。ともかく、価値なんて、自然界に存在しません。人間あるいは人間社会が好き勝手に作り出したものです。そして、価値には「数が少ないほど高い価値がある」という不思議な性質があります。資本家と労働者の数を比べると、どうしても資本家が少数になります。そうなると、資本家が得る価値は、労働者が得る価値より高くなります。価値は実物にすれば、お金が一番近いので、お金の多寡も価値と同様になり、つまり資本家が労働者よりお金持ちになります。

ただし、資本家がそれなりのリスクを負っているのも事実です。確かに、労働者が負っているリスク、自己破産や一家離散のリスクと比べたら、大したことないんですけどね。それはその通りだと私もよく知っていますし、「労働者が負うリスクなんてせいぜい戸建てローンの3000万円くらいだろう! 俺ら資産家が負うリスクは10億から100億円だぞ! え? うちの総資産額? 1000億円くらいですかね。アハハハ!」と言うバカはぶん殴っていい、と私もよく知っています。それはそれとして、単純に額としては、資産家のリスクは一般の労働者より何倍も大きいんですよ。

それと、自分で働く人よりも、多くの部下を働かせる人の方が、人間社会では価値があるんですよ。アダム・スミスミクロ経済学の理論通り、「数が少ないほど価値が高くなる」は人類社会の原理なんでしょう。「価値とは、どれくらい大切か、またどれくらい役に立つかの尺度である」という辞書的な意味からは、はずれていますけどね。

中国の前漢の時代、国士無双韓信が、劉邦の機嫌とるために放った有名な言葉がありますよね。

「私は100万の軍隊を指揮できる将ですが、殿下(劉邦)は1万の軍隊しか指揮できない将です。しかし、殿下は将たちを指揮できる類まれな人物です。私はただの将に過ぎませんが、殿下は将の将になれる、この国でたった一人の人物なのです」

世界のどの場所でも、いつの時代でも、人を使う人物は価値があり、その人を使う人物たちを使う人物は、さらに価値があるんですよ。多分。

話をマルクスに戻します。

では、資本主義社会で資本家に莫大な富が集中してしまう弊害は、マルクスの言う通り、共産主義社会にしない限り、解決しないのでしょうか。もちろん、それは間違いです。歴史が証明している通り、共産主義にしたら、むしろ失敗します。

では、どうすれば解決するかと言えば、単純ですよ。累進課税で解決すればいいんですよ。僕のブログの中でも特に読まれている「ベーシックインカムよりも国民所得税を導入すべき」やその前の関連記事に書いてある通りです。

つまり、自由経済が基本だけど、それだと理不尽に儲ける奴が出てくるから、累進課税で搾り取ればいい、という単純明快な理屈です。その搾り取った税金は、政府が責任持って、公平になるように社会に還元するわけですね。

私が最も尊敬するアメリカ大統領、ルーズベルトの政治理念は21世紀の今も十分通用するはずです。累進課税の理念は場合によってはあと1000年も通用するかもしれないのに、「なぜ累進課税は後退しているのか」に書いた通り、1980年代に累進課税を悪徳政治家どもがブチ壊したから、今のアメリカおよび世界に不公平が蔓延しているんですよ。

で、今回の記事の基礎知識があることを前提に、「スコア交換方法」や「スコア譲渡制限」について次の記事で論じます。