前回までの記事の続きです。
「令和の虎」の神回「成田悠輔」を観ていて、(成田悠輔はバカだなあ)と100年後の日本人と同様に今の私が思ってしまうのは、次のやり取りです。
茂木哲也「お金のいらない社会になると、ラーメン食べる場合、どうなるの?」
成田「ただラーメン食べた、というデータが残るだけです。ラーメンを食べ続けて、なにもやっていない人間がいると、ある日突然、ラーメン屋に入れなくなります」
ここは爆笑するところですが、「成田悠輔はしょせん21世紀のマルクスである」に書いた通り、成田の主張があまりに斬新だったので、1回目観たときは、このやり取りがいかにおかしいか、私は理解できませんでした。
ある日突然、ラーメン屋に入れないってことは、本人も現在、ラーメン食べられるかどうか分かっていない、ということですよ。そんな「今の自分がラーメン食べられるかどうか」すら予測不可能な社会、誰が望むんですか。「ラーメン代金を自分が持っているから、ラーメンは食べられる」と予想可能な今の社会の方が、遥かにマシですよ。
こんな変な事実からも、成田の主張する「お金の不要な未来社会」が到来する可能性はゼロです。もう断定します。
実際に到来するのは「シンギュラリティが生む『人間の数値化社会』」でしょう。もっとも、その記事に書いている通り、私の予想が実現する頃には、私は既に死んでいる可能性が高いと今の私は考えています。
それはともかく、「人間の数値化社会」の明らかなメリットは、未来が簡単に予想できることです。「今日、ラーメン食べられるかどうか」を確実に予想できる程度ではありません。おそらく、生まれた瞬間に、あるいは生まれる前から、下手したら父母が出会った段階から(つまり結婚前どころか交際前から)、その父母の子が就く職業まで、確率的にではありますが、数値化できてしまいます。
だから「未来が簡単に予想できすぎてしまう」デメリットは確実にあります。「人間の数値化社会」の到来は、間違いなくパンドラの箱を開くことに相当します。このデメリットのために、「人間の数値化社会」は実現しないかもしれません。少なくとも、そのデメリットを強調して、「人間の数値化社会」を阻止する勢力は今後、必ず誕生するでしょう。社会を健全に発展させるために、「人間の数値化社会」を阻止する勢力は一定程度必要だ、と私ですら考えます。
次の記事で「『人間の数値化社会』での刑務所改革」について論じます。