未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

医師と裁判官の違い

科学的事実あるいは社会的事実から書いていきます。

人体はまだ十分に科学的に解明されていません。世界最高の医者でも、人体は分からないことだらけです。医者が理解できようができなかろうが、医者の都合と全く関係なく、病気は進行していきます。医者は病気を治せるときもありますが、どうしても病気を治せないときも多くあります。医者は万有引力などの物理法則や質量保存則などの化学法則を変えることは絶対できず、「人は必ず死ぬ」などの生物法則を変えることも通常できません。

法律は人間が作ったものです。法律は人間が変えることもできます。当然ながら、法律は人間が理解できるものでなければなりません。法体系は不完全であるくせに、その社会に属する全ての人間はその法体系に従わなければなりません。この法体系の根源的かつ不可避な欠陥と矛盾を一般人が理解していないだけでなく、司法関係者すら理解していなかったりします。

医者の時間感覚と、裁判官の時間感覚は、かなり異なります。裁判官は最短で1週間、長いと1年の期間で物事を考えているようです。日単位で考えることなどまずなく、まして時間単位、分秒単位で考えることなど、絶対にありません。さらに、訴訟当事者たちの時間の都合だけでなく、平日昼間しか裁判を開かないなど、裁判官の時間の都合もかなり考慮されます。

医者の時間感覚は、もちろん、病気によります。分秒単位で急ぐべき時は分秒単位で急ぎます。1時間以内に治療すべきであれば、1時間以内に治療します。1日待てるのであれば、1日待つかもしれません。繰り返しますが、病気は医者の都合に関係なく進行するからです。もちろん、医者の能力にも限界があり、なんでも対応できるわけでもありませんが、命がかかっているのですから、病気の都合が最大限優先されます。

医療は言うまでもなく、患者さんが中心です。患者さんが最も困っている症状について、「医学的にその症状は関係ありません」と医者が言うことは、道徳的にも医学的にも間違っています。患者のいくつもの訴えを、医者の専門知識や医者の都合で取捨選択することは許されません。

しかし、裁判は、裁判官が中心でした。離婚裁判で私がいくら「元妻の家事能力の低さ」や「私が子どもたちの教育や家族サービスに費やした労力」を訴えても、判決に全く影響せず、判決文で触れることすらしていません。判決でなにが重要かは、訴訟当事者の主張とほぼ関係なく、裁判官が決めます。たとえば、訴訟当事者のいくつもの訴えについて、裁判官の自分勝手な価値観で、取捨選択することも許されています(私に下された判決文からは、そうとしか思えません)。

私が弁護士なしで裁判に挑んだのも、医学と比べると法学が簡単すぎたからです。まず、法律の教科書の分量が異常に少ないことです。司法試験に合格するための法学の教科書だと、民法全体で1冊だったりします。民法は「総則、物権、債権、親族、相続」に分類されるのですが、離婚問題を抱える私に関係するのは「親族」だけです。しかし、親族だけの本なんて、あまりに簡単すぎるせいか、日本にないに等しいです。だから、家族法と一括される「親族、相続」の本を買いましたが、そのうち離婚問題に関係あるのはせいぜい50~100ページくらいです。1日で隅から隅まで読めました。

医師と弁護士の違い」に書いたように、100以上の医学論文と10以上の教科書から、毎晩、患者さんの診断と治療を考えるような仕事をしている普通の医者である私からすれば、「法学、チョレ~!」と言いたくなりますよ。

確かに、法体系全体を理解するには、膨大な時間がかかるのでしょうが、自分の関係する法体系を勉強するだけなら、1日で十分だったりします。医学でも、「循環器内科」の全体を理解しようとしたら4年は必要でしょうが、自分の「高血圧」を治療するための医学を知るだけなら、1日で十分だったりします。

だから、「数十万円も払って弁護士など雇う必要ない。数千円で購入した家族法の本と自分の意思と能力で代替できる」と私は考えました。結果、「なぜアメリカに弁護士が多いのか」に書いた通り、私は裁判で惨敗して、現在、改めて弁護士を数十万円かけて探しています。

なぜ私は裁判で惨敗したのでしょうか。

医学だったら、科学的に失敗した理由を探求します。理性的な私の得意分野です。

今回は法学なので、社会的に失敗した理由を探求しなければならないようです。だから、「裁判官がハズレだった」という、くだらない理由もありえるわけです。理性的な私の苦手分野です。