前回の記事の続きです。
「政治と政治学のあいだ」(大井赤亥著、青土社)からの記述です。
「分かっていたことではあるが、大学というのは、注意深く選別された人たちが集まる極めて特殊なコミュニティである」「しかし、選挙に身を投じた途端、上下左右に爆発的な人づきあいが増える。これまで何の縁もなかった人びと、存在さえ知らなかった職業の人びとと否応なく接触する。好きか嫌いか、インテリかどうかなど構っていられない。選挙というのは、一票を求めて政治家に地域を這いずり回らせる工夫であり、立法府を担う代表に無理やりに人と接触させて、その利害や価値観を把握させる憲法上の要請なのである」
この記述に対する私の感想です。
(なんだ、このドブ板選挙賛歌は。どこまでも世間知らずだな。選挙前は言うに及ばず、選挙後も世間知らずであることが、この文から滲み出ている。この人は本当に政治学者なのか。大学ほど狭い世界ではないが、ドブ板選挙で接触する世界も、全体の一部だよ。そんなことすら知らなかったのか。やった後も気づかないのか)
前回の記事の平口議員婦人のドブ板選挙賛歌でも明らかなように、著者はドブ板選挙を素晴らしい努力とみなすようです。政治学者なのに、自身の理念を好きな方法で好きなだけ説明できるネットでの選挙公報活動は「しないよりはした方がよい程度のものだ」と切り捨てています。「挨拶まわりなどの伝統的な政治活動の方が今なお遥かに重要である」そうです。
著者は立憲民主党の次期衆院選候補者であるものの、議員ではありません。当然、国からの給与は出ません。では、2020年4月1日の「初めての駅立ち」から2021年10月30日の落選決定まで、自身の貯金を取り崩して、生活していたのでしょうか。
おそらく、当選するまでは自腹で活動する政治家もいるのでしょうが、著者の場合、立憲民主党から毎月20万円、情勢調査費という名目で実質上の給与を得ていました。住民税非課税世帯ぎりぎりと書いているので、年金や保険料はさすがに払っていたでしょうが、税金はかからなかったようです。
著者は地元からの出馬なのにもかかわらず、当初、朝立ちも夕立ちも、活動は全て一人だったそうです。毎朝、のぼり、ポール、スピーカー、マイクなどの道具一式を入れた重いスーツケースを持って移動し、ヒーヒー言いながら駅の階段を上がり、道具を取り出しては組み立て、駅前街頭演説を毎日一人で行っていました。なぜ地元の友だちに手伝ってもらわなかったのだろう、立憲民主党の党員に声をかければ、手伝ってくれる人くらいいただろう、と思いますが、2ヶ月間、そんな活動をしていた、と書いています。効率が悪すぎます。頭よりも足を使っている時点で、学者と自称する資格はないとも思います。
2020年6月、著者がキックオフ・ミーティングをようやく開いて、選挙を最後まで支えてくれるボランティア(義勇軍と著者は呼んでいます)の協力を得ます。著者は天真爛漫に「候補者本人が必死に、捨て身で活動に取り組めば、その意気に応じて必然的に支援者が集まってくる」と書いています。政治学者の言葉というより、気合重視のスポーツコーチの言葉です。
著者によると、「知名度を上げるための最大の武器は、ポスターである」そうです。
「町中に貼ってある政治家のポスターをご覧になった方は多いだろう。あれは政治家本人やその支援者が、一枚一枚、家屋の持ち主に承諾をとって貼って回るのである。一説には、相手候補者以上の数のポスターを貼れば、少なくとも比例復活当選は確実といわれるほど重要であり、立憲民主党でも新人候補の活動をはかる基準として、選挙区でのポスター1000枚掲示が一つの目安になっていた」「ポスター貼りでは、平身低頭に頼んでも軒並み断られ、一枚も貼らせてもらえないまま日が暮れていく」「そこにあって相手候補の平口氏はすでに当選4期のベテラン。ポスターは優に3000枚を越えていただろう。最終的に、選挙公示までに私が貼れたポスターは数百枚程度であり、相手候補との差は圧倒的であった」
やはり著者によると、「個別訪問は、知名度をあげるための最も地道な活動であると同時に、有権者の政治への感覚を肌で知るための最も確実な方法である」そうです。
「人と繋がる最大の活動は、何より対話、すなわち直接的な相互対話だ。街頭演説は、頑張っているように見えるが、しょせんは一方通行」「突然、家のピンポンを押せば、住人に不審がられたり煙たがられたりするのは当然である」「対話には筋書きがなく、有権者は思いもよらない意見をぶつけてくる」「こちらに知識がなくて困惑当惑したり、気疲れしたり、メンツをつぶされることもある」
「根性試しのマラソン街宣」という見出しもあります。ますます、政治学者らしくない言葉です。
「駅頭に始発から終電までたち続けるマラソン街宣も5,6回は行った」「朝の通勤電車の際に私を目にした人びとが、夕方帰宅する時にまた私を見て、『まだやってるのか!』と、その根性に感心してくれるというわけである」
ここまでドブ板好きなら、なぜ自民党から出馬しなかったのか、としか私には思えませんが、著者にとって、そう思われることは許せなかったようです。
「私が選挙に出たのは、自民党に対抗するもう一つの選択肢がこの国にはどうしても必要だという信念から。その覚悟で飛び込んだわけであり、その志を曖昧にしてはすべての実践が有名無実の灰に帰する」「だから、『自民党から出られなかったから、野党なんだろう?』と言われた時は、少々きまずくなろうが、私の考えを明確に伝えた」
そこまで書いておきながら、対立候補の自民党平口議員と私の差はあまりない、とも書いてあるので、理解に苦しみます。
「平口氏はパフォーマンスと無縁な地味な政治家であり、自民党ながら平和問題にも関心が深く、被爆建物でありながら解体の危機に直面した旧陸軍被服支廠の保存問題では新左翼系の平和集会にも参加してきた。また、被爆後に黒い雨を浴びたものの被爆者と認められなかった住民が起こした『黒い雨訴訟』では原告の主張に加勢し、被爆者認定と医療支援の拡充を訴えるなど、これらの点で私との違いはそれほど大きくなかった」
この文章の隣ページには、広島二区の歴代最強の自民党政治家である灘尾の「精交」という揮毫を喜んで持っている著者の写真が大きく載っています。これで「自民党から出たいわけではない」と気まずくなってでも明確に言われたとしても、信じられる人、理解できる人はいたのでしょうか。
それにしても、東大卒の立憲民主党候補がここまでドブ板選挙を賞賛している事実に失望します。著者はネットでの広報活動など、選挙に無効だと書いていますが、それは必ずしも事実ではありません。たとえば、2025年5月1日の朝日新聞では「ネットドブ板選挙」で当選した国民民主党の玉木雄一郎の例が載っています。毎日無数に書き込まれる投稿にできるだけ多くに「いいね」を自ら押し、自らコメントをつけます。「とにかく間違ったら謝る。変に防戦しないこと」などのコツも載っています。もっとも、これは「労力がかかるので、努力した気になれる」「理念を知ってもらうよりも、名前を知ってもらうことが重要」「有権者のご機嫌とりに執心する」という点で、ネットを使っているものの、ドブ板選挙であることに変わりありません。つまり、本来あるべき選挙活動ではありません。
それでは、本来あるべき選挙活動とはなんでしょうか。やはり、候補者が選ばれた後にどのようなことをするか、つまり公約を有権者に知ってもらうことです。極端な話をいえば、ネット上に一方的に(双方向は禁止)好きなように好きなだけ候補者の主張や公約を載せて、あとはNHKの政見放送で性格(話し方や態度)を有権者に知ってもらうだけでいいと私は考えます。個別訪問、演説活動、イベントや冠婚葬祭の参加、ミーティング、ポスター、「いいね」を含めたSNS返信などは全て禁止にすべきと考えます。
そうすれば、候補者は公約の質を高めること、つまり選ばれた後にすること、政治家の仕事の質を上げることに時間と労力を費やし、有権者も名前を知っているかどうか、話したことがあるかどうか、イベントに来てくれたかどうか、「いいね」が返ってきたかどうか、なんて本来どうでもいいことでなく、公約の質で候補者を選ぶことができ、ひいては政治の質を上げることにつながります。
以前にも書いたような気がしますが、ドブ板選挙は日本の政治の恥です。有権者に平身低頭し、できるだけ対立を避けて、自分の考えを述べるよりも、自分の名前を憶えてもらうことを優先しているなんて、本来あるべき選挙活動でないはずです。1日も早く、ドブ板選挙活動を法律で制限すべきです。
ドブ板選挙を理想とする著者のような政治家をなくすために、ドブ板選挙活動を違法にする法律改正も有効でしょうが、法律の抜け穴をくぐろうとする政治家が出てくるので、日本人がドブ板選挙活動をする政治家に投票しない有権者になることも重要です。
次の記事に続きます。