未来社会の道しるべ

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統治者と民衆

莫高窟と日本人」に書いた通り、10年以上前のカナダ留学時に、カナダ人相手に「敦煌」(井上靖著、新潮文庫)の出だしを私は次のように語っていました。

 

中国の宋の時代、科挙(役人採用試験)の最後に、皇帝自らが試験官となる殿試があり、物語はそこから始まります。

主人公はその殿試まで進んだ天才です。皇帝相手に一歩もひるまず、丁々発止の問答を繰り返していましたが、突如、後頭部を叩かれます。なにごとかと後ろを振り返ると、案内係の役人が呆れ顔で主人公を見ています。ふと我に返ると、主人公は皇帝のいる部屋ではなく、殿試受験生たちが集合していた部屋にいます。さらに、先ほどまで昼間だったのに、いつの間にか夕方になっており、周りに受験生は誰もいません。そこでようやく、主人公は受験生の集合部屋で寝過ごして、皇帝との問答も夢の中で、既に殿試は終わっていることに気づきます。

案内係に急き立てられて、宮殿を後にした主人公は失意のまま都の臨安をあてもなく歩き回ります。本来なら、主人公は郷里に帰り、結果を伝えて、謝り、再度の受験勉強に励まなければなりません。しかし、3年後の受験まで地獄のような勉強生活を考えると、郷里に帰る気にはなれませんでした。主人公は郷里の期待を背負い、郷里の人たちが集めてくれた大金を持っていました。いっそ、この大金を持って、どこかの遠い町に逃亡しようかと思っていた時、人だかりが目に入ります。裸の若い女が机の上で横になって、上半身裸の太った男が鉈を持って、こう呼びかけています。

「この女の肉はいらねえか。どの部位の肉が欲しいか言ってくれれば、この場で切って、売ってやる」

腕はいくら、脚はいくら、腹はいくら、胸はいくら、と太った男が大声で叫びます。頭の値段がついたところで、主人公が言います。

「分かった。俺が買う」

「どこが欲しい? キレイに切りとってやる」

「いや、切らなくていい。全部買う」

周りから、笑い声が漏れます。太った男は蔑んだ表情で言います。

「おいおい。ここは肉屋だ。そんな目的なら、あっちの売春街に行ってくれ」

主人公は大声で言い返します。

「だから、全部の肉がほしいんだ。いくらか言え!」

すると、それまで黙って寝ていた裸の女が上半身だけ起こして、主人公に言います。

「私は肉として売られるんだ。おまえに辱めを受けるくらいなら、ここで死んだ方がマシだ」

辺りは大爆笑に包まれます。怒った主人公は太った男に十分な金を投げつけて、女を引っ張り、その場を去ります。

しばらく女を連れたまま歩いていると、女が言います。

「痛い。いつまで手を掴んでいるんだ」

主人公は立ち止まり、裸の女を見ている民衆の好奇の目に気づきます。仕方なく、自分の服の一部を女に着せます。

「これでいいだろう。後は好きにしろ」

女に告げて、主人公は速足で進みますが、女は主人公に着いてきて、こう言います。

「速い。もっと遅く歩いてくれ」

主人公は無視して、さらに速足になりますが、女が走って追いかけ、主人公の手を取ります。

「おまえは私を買ったんだ。おまえは私の世話をしなければならない」

主人公はその理屈に呆れます。ただし、主人公も女も、それからどうすればいいか分からない点では同じとも気づきました。

とりあえず、夜が遅くなる前に、主人公は女と共に適当な宿屋に入ります。主人公は最初その気はなかったのですが、夜のうちにその気になってしまい、女と性関係を結びます。

翌日、女より早く起きた主人公は宿屋の窓から、臨安のせわしない朝の様子を見ながら、考えます。

それまで、主人公はこの世界で知らないものはないと信じ切っていました。ありとあらゆる書物を読み、森羅万象の全てを理解しているものと考えていました。

しかし、昨日の殿試失敗後から、ろくに文字も読めない民衆と、まともに対応できていない自分を知りました。

「そうか。だから、いつの時代も政治はうまくいかないのだな」

(民衆を統治する者は、多くの知識を持ち、同じような知識人と交流する対処法を身につけなければならない。しかし、その統治者たちは、支配される民衆たちと大きな隔たりがある。支配者と民衆は、普通に会話することすらできない。お互いの人生が違いすぎるからだ。会話を成立させるためには、儒教などが定める礼儀作法を守らせなければならないが、それは外見だけ会話が成立しているだけであって、実質的な意思疎通とはほど遠い)

(かといって、大衆と同じ程度の知識しか持たない者に統治させれば、例外なく暴政になると歴史が証明している。だから、知識人たちに統治させるしかないのだが、それだと統治者と民衆の価値観の差が大きくなる。つまるところ、政治がうまくいくことなど、ありえない)

寝床から起きてきた女に主人公が出身地を尋ねると、女は遥か遠くにある西夏の都の名を告げます。政治の本質を理解した主人公は、役人になる夢を捨て、郷里の民衆が集めてくれた金を使い、女と共に西夏に向かいます。

 

カナダから帰国した後、「敦煌」を読み返してみたら、私が語った上記の物語と異なっていることに気づきました。「政治がうまくいかない理由」「統治者と民衆の違い」などは、私が他の本などを読んで考え出した思想体系が入っていたようです。

この「知識人と民衆の違い」は「ヨーロッパでの新右翼の台頭」などと関連しているので、「アウフヘーベンと民主政治の矛盾」で論じてみます。