未来社会の道しるべ

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患者に与えられる治療選択肢の問題

「国境の医療者」(メータオ・クリニック支援の会編、新泉社)は、タイ領の人口12万(2008年当時)の町「メソット」でボランティアした日本人医療者のエッセイ集です。メソットはミャンマーの国境近くで、タイ人の2倍以上もミャンマー移民(ほぼカレン人)が住んでいます。カレン人のシンシア医師は1988年のミャンマー民主化運動に参加し、政府から狙われ、タイ領のメソットまで逃れ、メータオ・クリニックを設立します。エッセイを記した日本人医療者たちがボランティアしたメータオ・クリニックは、患者の多くもミャンマーで迫害されているカレン人になります。メータオ・クリニックは国際援助により診療費無料で運営されており、そこで治療できない場合、近くのタイの公立病院に運ばれ、そこでの治療費はメータオ・クリニックの負担となっており、クリニック運営費の多くは他院での治療費に回るそうです。

今回、注目したいのは、この本に出てくる日本人ボランティアの田邉文医師が遭遇した症例です。

52才女性の糖尿病患者さんです。糖尿病性の足の壊疽があり、悪臭を放っていました。毎日、壊死部を切り取って、新しい皮膚の再生を待つも、壊疽部は広がるばかりです。壊疽部の感染により、熱も出てきます。外科病棟の現地職員トップは「糖尿病の患者は、切断しても創部がまた壊疽になり、助からないから動けるうちに帰ったほうがいい」と言いました。しかし、家族はそれでも手術をしてほしい、と言うので、スタッフの間で何度も話し合いがもたれました。

メータオ・クリニックで正規の医療資格を持つのはシンシア医師と海外ボランティアだけであり、他の職員はクリニック独自の教育プログラムを修了した非公式の医療資格者です。そこでの話し合いは、どうしても、正規の医療資格を持つ日本人医師の田邉の意見が優先されました。

田邉の意見は、「私が言うことは決まっている。最後は患者さんが決めるべきだ。医療者は、良いことも悪いことも、できるかぎり漏れなく情報を提示して、患者さんが後悔しない決断をできるよう、サポートする役だ。でも、患者さんに代わって決めてあげることはできない」でした。これは現在の日本の医療現場で普及している「決め方」です。現地の職員の何名か、特に経験の長いスタッフほど、手術には反対でしたが、やはり田邉の意見が通ります。結果、患者さん家族の希望通り、手術となりました。

大方の予想通り、その手術で患者さんは体力を失い、傷口もみるみる化膿して、身体に回った菌による感染が抑えられなくなり、高熱が続きました。

手術から1ヶ月して、いよいよ患者さんの容態が悪くなった日の夜です。田邉と共に手術をしたクリニック職員のティカウが22時を回っているのに、帰宅していた田邉を病室に呼び出します。ティカウは酔っぱらって、真っ赤な顔をしていました。

「あの切断の患者をどう思う?」

ティカウは鋭い目で田邉をにらんでいました。お酒のせいで呂律が回っていないので、なにを言っているか分からないところもありましたが、田邉のせいで患者さんは苦しみ死んでいく、と言いたいのは分かりました。

ティカウは田邉の答えを待たず、患者さんのベッドの脇に行って、「こんなに苦しんでいるのは見ていられない!」と叫んで、患者さんの酸素カヌラと点滴をはずしました。医療スタッフのすることは一切何も言わないミャンマー人の患者さんも家族も、この異様な様子に驚いた顔をしていました。

田邉は怒りで目の前がくらくらするのを感じましたが、必死でこらえてカヌラと点滴を戻しました。患者さんの前で取り乱してはいけない、と田邉はそればかり自分に言い聞かせていたそうです。

ティカウの腕をつかんで、病室の隣の処置室に入ると同時に、田邉は涙がぼろぼろ出ました。

「あの患者さんにはチャンスが少ないのをみんな知っていた。だから、みんなで話し合って、そのチャンスにかけることになったのでしょう。いま私を責めるのはフェアじゃない」

(その患者さんが長くないことは誰の目にも明らかで、この手で命を縮めてしまったことをつらく思わない人はいない。でも、それを含めて仕事なんだ、耐えるしかない。ティカウは弱い人間だ。私を責めることで自分の辛さを癒そうとしているんだ)

そう田邉は思っていました。そこへ当直の職員から連絡を受けたベテラン職員がやってきます。

「ティカウは最近、飲みすぎて訳が分からなくなっているから、気にしなくていいよ。向こうへ連れて行って、寝かせてやるよ」

ティカウはうなだれたまま、仲間に連れていかれて、寝てしまいます。その夜、田邉は眠れませんでした。

翌朝、ティカウは田邉に電話して「ソーリー」と言いましたが、田邉は受け入れられません。

(お酒のせいであっても、言ったことや、やったことは戻らない)

その患者さんは、その日の昼頃、2人の子どもに見守れて、亡くなります。

ティカウは上司2人から、こっぴどく叱られたそうです。

ティカウと田邉が派手な言い争いをしてから1週間後、田邉は職員から呼び止められます。

「当直室のティカウが起こしても起きないんだ。様子もおかしい。ちょっと来てくれる?」

田邉はティカウと会うのは気が進みませんでしたが、当直室に行きます。ティカウを見た瞬間、田邉は頭にどっと血が集まるような気分になります。死の直前に人間が行う下顎呼吸をしていたのです。

タイの公立病院にティカウは運ばれ、頭部CTを受けて、大きな脳出血をしたと分かります。翌朝、ティカウは亡くなります。

(ティカウの自慢のバイクで一緒によく買い出しに行ったものだった。言い争いでわだかまりがあったとしても、それから1週間、仲直りをする機会はたくさんあった。私はどうして許せなかったのだろう)

(許せなかった? 本当はそんな格好いいものではなかった。ティカウに怒ったのは、自分も手術の判断は失敗だったと思っていて、それを目の前に突きつけられたことがつらかったからだ。やっぱり、こちらからはっきりと「手術は無理」と言うべきだったかもしれない。悪くなる可能性を十分に話しても、たとえ1%でも望みがあるなら、患者はそれにかけようとするだろう。結果的に、患者に期待を持たせる判断をさせたことになる。「患者さんに決めてもらう」というのは耳ざわりは良いが、責任を持たないということだったのかもしれない)

これは全ての医師が気をつけなければいけない重要な観点です。田邉も書いているように、「どんなに説明しても、患者が正しい判断をできるわけがない」からです。その表現は断定しすぎだと思いますが、どれだけ治療のデメリットを説明しても、患者さんには「治療するか、しないか」としか伝わらない危険性は、全ての医者は知らなければいけません。「治療するか、しないか」の2択なら、まず「治療する」を選びます。まともな教育を受けていないカレン人だから、そう選択しているわけではありません。少なくとも現代の日本人の多くも、そう選択する傾向があります。私が学生代表をしたプライマリケア連合学会のおかげで、私は医学生の頃から、その危険性を知っていました。

医療の本質」で医者ではなく患者さんが医療の選択をする社会が50年以内に必ず到来する、と私は書きました。もし医者がAIに置き換わったなら、患者さんに提供される「医療の選択肢」を決める問題も解決しなければなりません。たとえば、上の症例だと「『足を切断しない』の選択肢だけしか患者さんに提供しない」が(メータオ・クリニックでの)正解となるでしょう。この正解を出すためには科学的および社会的判断が入ってきます。全ての医療選択で、こういった「正解の選択肢」が今から43年以内(その記事を書いてから既に7年経過したので)に出せるかといえば、科学的または社会的に、難しいようにも思います。