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冤罪被害者を恨み続ける被害者

(またか)

「冤罪のつくり方」(小林道雄著、講談社文庫)を読んで、そう思いました。

大分女子短大生殺人事件(みどり荘事件)では「無実の人を国家権力によって殺害した可能性がある」にも書いた「冤罪発生の4条件」が全て満たされていました。

1,警察が見込み捜査をしていた

2,マスコミも見込み捜査が正しいとの前提で報道していた

3,決定的な証拠のはずのDNA鑑定でDNA検査の権威である三澤筑波大学教授に重大な間違いがいくつもあった

4,犯罪後数年がたってから被害者の膣から突如として精液が発見された

大分女子短大生殺人事件では、「5,自白調書は警察の誘導によって作られ、他の証拠と矛盾した」を加えることもできます。

著者も書いている通り、一審での無期懲役判決文は、読んでいてバカバカしくなるほどの屁理屈を並べています。著者が雑誌にこの理不尽さを公表したため、「輿掛さん(被告)の冤罪を晴らし、警察の代用監獄をなくす会」が作られるほど世間の注目を集め、控訴審で無罪が確定します。

元大阪高裁裁判長の石松竹雄は正直に「(一般論として)裁判官は、あまり安易に無罪にしてはいけない、そう思わせる状況はあるということです」と著者に認めています。「被告人を犯人とする場合に説明の不可能な事情はない」や「自分が犯人として疑われないための行動と考えることも出来ないわけではない」や「決定的に矛盾する事実であると言うことはできない」といった一審判決文で無期懲役を決めていいわけがありません。「不可能ではない」「考えられないわけではない」「決定的に矛盾するとは言えない」なんて理屈が通れば、どんな人でも有罪にできることくらい、バカでも分かりそうなものです。

著者が何度も書いている通り、一審で既に無罪であることは明らかでした。一審で無罪であれば、さらに5年も被告は収監されることもありませんでした。事件は1981年6月、逮捕は1982年1月、一審判決は1989年3月で、保釈は1994年8月、控訴審判決は1995年6月です。容疑者であり被告の輿掛は25才から38才までの13年間を収監して過ごすことになりました。輿掛は仕事を解雇されただけでなく、当時同棲中だった女性との結婚も逃すことになります。身に覚えのない殺人事件の犯人にされて人生を台無しにされた罪は、場合によっては殺人よりも重いでしょう。

もっとも、この記事で注目したいのは、冤罪そのものよりも、この大分女子短大生殺人事件の被害者遺族の冤罪確定後の気持ちです。なんと、被害者の両親は無罪と確定した腰掛を恨み続けているのです。警察のウソや人権無視の尋問を受けていたと世間に知らされたはずなのに、被害者遺族の冤罪被害者への恨みは「倍化」されていると著者は書いています。(またか)と私が思ったのは、まさにこの点です。

私が調べた殺人の冤罪事件の全てで、冤罪が確定した後も、殺人事件の遺族は冤罪被害者に謝っていません。それどころか、この例のように、恨み続けています。

普通、誰かを責めて、人違いだと分かったら、その誰かに謝らなければなりません。もちろん、勘違いさせた人(冤罪事件なら警察・検察と裁判官)の責任ではありますが、それでも罪のない人を責めた罪は、たとえ被害者や被害者遺族だったとしても、あります。特に「人殺し」と責めたのなら、これ以上はないほどの侮辱なので、その罪は極めて重いと言わざるを得ません。

にもかかわらず、殺人事件の遺族は事実や裁判結果を捻じ曲げてでも、「冤罪の方こそ間違いだ」と信じ続けようとします。マスコミでも冤罪被害者への恨みを公言する殺人事件の遺族すらいます。冤罪被害者にとって、これは侮辱罪にあたるはずです。殺人事件の遺族が冤罪被害者に侮辱罪などで訴えられた日本のケースを私は知りませんが、もし知っている方がいたら下の「コメントを書く」に記入してもらえると助かります。

例外なく、殺人事件の遺族が「冤罪はウソだ」と信じ続けようとする理由はなんでしょうか。それは刑事裁判だと、被害者や被害者遺族が被告(犯人)を一方的に恨む制度になりすぎているからだと私は考えます。

このブログでも何度か書いた通り、日本だと刑事裁判になったら、有罪が99%です。良くも悪くも、有罪になる確信がなければ、検察が刑事裁判にしない(起訴しない)制度になっています。だから、上記の通り、裁判官は刑事裁判で無罪の可能性をあまり考えません。まして、検察は無罪であると認めようとしません。

そもそも、検察官は被害者や被害者遺族の代弁者です。どうしても、被害者と被害者遺族が検察と一蓮托生になります。被告が犯人でないとの主張は警察や検察を否定していても、被害者や被害者遺族を否定するつもりは全くないはずなのに、被害者や被害者遺族はそれに気づけなくなりがちです。

裁判で犯人であるはずの被告を責めてくれる検察官に被害者や被害者遺族は共感するはずです。日本だと、検察官は裁判でも被告にやたらと反省を求めます。万一、被告が反論しようものなら、「これだけの罪を犯したのに、まだそんなことを言うのか!」と検察官は考えます。裁判外でも、検察官は被害者や被害者遺族と何回か話します。いつの間にか、検察官を否定することは、被害者や被害者遺族を否定することと同義と考えてしまうのでしょう。

こうなると、もはや日本の刑事裁判は理性的に解決する場でなくなります。「真犯人よりも私を罰した者を恨む」にも書いたような日本の司法制度が生んだいびつな現象です。

私の個人的な意見を書きます。上記の日本特有の事情を考えても、私は冤罪被害者を恨む殺人事件の遺族にほとんど共感できません。極端な話、有罪確定後でも、被告が犯人でない可能性はあると忘れた時点で、社会人として失格だと思います。また、たとえ凶悪殺人事件だとしても、犯人を責めるだけではなく、なぜ犯人が凶悪殺人事件を起こすほど追い詰められたのかを考えるべきでしょう。よほどの事情がなければ、被害者や被害者遺族であっても、私はこう考えると予想します。

ところで、大分女子短大生殺人事件について、輿掛の無罪確定後に、警察は再捜査をしていません。輿掛の釈放が1994年8月(実質的な無罪放免)、無罪確定が1995年6月、事件の時効は1996年6月です。輿掛が無罪だったのですから、必然的に、真犯人は別にいるわけで、時効前なら、警察は再捜査義務があるはずですが、全くしていません。「輿掛さんの冤罪を晴らし、警察の代用監獄をなくす会」の一人は大分県議員になり、1995年12月、議会に県警本部長を呼んで、輿掛の受けた苦しみを訴え、被害者遺族のためにも再捜査を求めました。しかし、県警は輿掛への謝罪を述べず、再捜査もしないままでした。

これで警察が職務怠慢にならない理由が分かりません。海外でも、こうなのでしょうか。分かる方、知っている方がいたら、下の「コメントを書く」に記入してもらえると助かります。