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池袋通り魔事件犯人の経歴

1999年9月8日、東京の池袋で「わしボケナスのアホ全部殺すけえのお」と怒りの文を自宅ドアに張り付けた23才の造田博が2人を殺傷し、6人を重軽傷に負わせました。裁判で死刑が確定しましたが、2025年4月現在、まだ死刑執行されておらず、造田博は生きているようです。

「池袋通り魔との往復書簡」(青沼陽一郎著、小学館文庫)から、造田博の生い立ちを記します。

造田は岡山県灘崎町で高校中退まで育ちます。父は大工、母はミシン製法の内職をして生計を立てていました。兄弟は4才上の兄が一人ですが、上記の本の著者にあてた膨大な手紙の中に兄に関する記載は一切ないそうです。造田は幼年期、少年期の暮らし向きは悪くなく、不自由することなく過ごしていました。

造田の親戚は裁判記録の中で、こう語っています。

「保育園くらいのころは辛抱強い子で、将来大物になると思っていました。小・中・高校時代はもの静かでおとなしく目立たない存在でした。人に迷惑をかけたことが一度もない、悪いことは判断のできる正しい心を持った子でした」

中学生の頃、父は肝臓を患ったことを理由に仕事を休みがちになり、ギャンブルに精を出します。服飾の内職から保険の外交員へ転職し、頻繁に外出の機会の増えた母も、夫と同様に遊興場へ足しげく通うようになりました。パチンコ、競艇、競輪に夫婦で熱くなった後には、莫大な借金が待っていました。サラ金はもとより、ギャンブル仲間からも借金がかさみ、弁護側の立証によると、その総額は5千万円にものぼっていました。

この頃のことを、近所の住人は口を揃えたようにこう語ったそうです。

「肝臓を悪くしたって言うが、肝臓を悪くした人間がどうして朝から晩までパチンコ屋で遊んでいられる? そもそもパチンコを始めたのは母の方だ。家の中の内職から外に出られたのが嬉しかったんだろう。服装も派手になって、男の人との付き合いもできてくる。そんな妻を夫は気になって、放っておけなかったんだろう。父も一緒にパチンコに行くようになって、仕事はせんと借金はかさむ。借金取りが家に来るようになったもんだから、朝8時には家を出て、夜10時11時に帰ってくるまで1日中パチンコ。それも、夫婦2人仲良く軽トラックに乗って朝出かけて行きよる」

両親のギャンブル三昧が造田の人生を狂わせた元凶であることは間違いありません。それにもかかわらず、中学1,2年の頃には下から数えた方が早かった造田の成績は中3になると急上昇し、県下有数の進学校である県立倉敷天城高校に合格します。

造田が高校に通う頃には、自宅に借金取りが押し寄せ、両親を見張るようになりました。両親は日中どこへともなく姿をくらまし、夜遅くになってから自宅に戻り、造田に顔を見せて食事代を渡します。ある日、両親は造田に行き先を告げず、広島県福山市のパチンコ店で働きだし、造田が近所の人に「うちの両親は、どこに行ったか知りませんか?」と駆け込んだこともあったそうです。

造田は2年で高校を自主退学します。自転車で1時間かかる距離にあった弁当屋でアルバイトをしながら、深夜に戻ってくる父母を待つ生活を送ります。

まだ1990年代前半で、借金の取り立ては凄まじく、深夜に帰宅する両親からわずかばかりの食費を受け取る生活は1年ほど続きます。造田が18才の時、両親は家財道具を全て持って、失踪します。造田の犯行後も、現在まで、両親は行方不明のままです。

これだけの記述からすれば、造田がおかしくなったのは全て両親のせいで、子どもは被害者にすぎないと考えてしまいますが、周囲の見方は少し違っていました。

「確かに両親は朝から晩まで外に出て遊んどったが、博も外に出て遊んでいた。どんなことがあっても土曜日の午後には、父が兵庫のゴーカート場まで博を連れていく。それで遊ぶ。その金も全部借金から出ている。博も親と一緒よ。それだけ親に甘やかされてたんだな。そのうちに、ゴーカートの友だちもできるようになって、1週間くらい平気で泊まり歩くようになって、家に帰ってこなかった。親が夜中に帰っても、行き違いになることもあったようだ。親も自分たちが遊んでいるもんだから、勉強しろとも言えんしな」

両親失踪後、造田の部屋には「どこであんなに手に入れたかな」と思うほど膨大なマンガがあったようです。

「両親が悪いと言うが、そんな両親に甘やかされ、甘えていた博も悪い」

遊びほうけて、現実から逃げまくる両親を見て、自身も遊ぶことで勉学生活から逃避していました。両親失踪のギリギリまで高校に通っていたのではなく、そのかなり前に高校に登校しなくなっていたことから、周囲の人にはそう映ったようです。

造田は福山市内に暮らす実兄の住むアパートに転がり込みます。当時、兄はアルバイトをしながら学費と生活費を捻出する大学生でした。

ここから犯行までの5年間、造田は職と住所を転々とします。

1994年1月~3月:福山市のパチンコ店

1994年の数か月:ビルの清掃会社

1994年8月から:広島県のH工業で船の塗装

1995年頃:兵庫県のI工業で電灯製作

1996年9月から11月:岡山県倉敷市のN会社で自動車製造

1997年3月から2カ月:愛知県岡崎市のT工機で自動車製造

1997年5月頃から:京都府の染物工場

1997年夏頃から2カ月:東京都の朝日新聞売店

1997年11月から1998年5月頃:愛知県の自動車製造

1998年6月から9月:アメリカのポートランドの教会に滞在

1998年末頃に3ヶ月間:土木作業員

1998年から1999年の冬:Kという会社

1999年に1カ月:愛知県のソニー工場

1999年2月から6月の犯行直前まで:東京都北千住の読売新聞販売店

ここで注目したいのは裁判での証言で、造田が仕事を辞める理由を聞かれると、全て要領を得ない返答になってしまうことです。たとえば、広島県のH工業を無断欠勤した理由について問われた時の造田の返答です。

「その時、あの! ……(意気込んで言いかけた後、黙ってしまう)……仕事が、……あったのと、あとぉ!……あと、私のぉ……、両親の借金でいなくなったので、そういうことがあったり、そういうこととかあって、あのう……、2週間、あ~、欠勤することあったと思います」

兵庫県のI工業をすぐに辞めた理由を問われた時の造田の返答というか反応です。

「……(沈黙。ときどき、首が動くが、あとは斜め下を見つめたまま動かない)」

裁判で造田が当意即妙に答えることは一度もなかったようですが、ここまで返答に窮するのは辞職理由を問われた時だけです。ほぼ全ての仕事において、数か月働いた後、造田は無断欠勤をして、失踪しています。働いた分の給与さえ、受け取らないこともありました。

なぜ加藤智大は自殺ではなく殺人事件を起こしたのか」でも書きましたが、若い頃に転職を繰り返し、人生がうまくいかない男性は犯罪者予備軍です。世界中、どの国でも凶悪犯罪の多くは、複数転職組や無職組の若年男性によって起こされているようですが、日本も同じです。私がこのブログで取り上げた凶悪殺人犯の多くも、この条件を満たしています。もっとも、この条件を満たす若い男性など、学卒後の10年間で考えて、2割から3割はあてはまるので、日本だけでも数百万人はいます。この数百万人全員を犯罪者予備軍と言ってしまうと、偏見になるので好ましくはないかもしれません。それでも、凶悪犯罪対策を考える時、複数転職組と無職組の若年男性の対策がないとしたら、問題だと私は考えます。繰り返しになりますが、この問題を把握して対処するためにも、「家庭支援相談員」は必要だと考えます。

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