前回までの記事の続きです。
タイトルは「社会でうまく生きいられない人が刑務所でうまく生きられるべきでない」が適切かもしれません。もし社会より刑務所でうまく生きられる人がいたなら、社会か刑務所のどちらかがおかしい証拠になります。
「死刑のための殺人」(読売新聞水戸支局取材班著、新潮文庫)である土浦連続殺傷事件について、「なぜ金川真大は土浦連続殺傷事件を起こしたのか」からの一連の記事で私は犯人を徹底して批判しました。
一方で、「無期懲役になるための殺人」である新幹線無差別殺傷事件の犯人である小島一朗については徹底して批判する気にはなれません。前回までの記事でも示しているように、小島は「私もそうなったかもしれない」と同情を寄せてしまう凶悪犯罪者の一人です。
小島と私の共通点は多くあります。特定の能力が極めて高いこと。道徳(正義)を極めて優先すること。(西洋ほど道徳を優先しない日本だと)他人とうまくコミュニケーションできないこと。変わり者を許容しない日本社会では生きづらいこと。プライドが高いところ。
「横浜刑務所最高成績の囚人の生い立ち」で小島が横浜刑務所で最高成績をあげたと書きましたが、小島は社会でも同じように高い評価を受けていたことがあります。小島が職業訓練校を19才で卒業した最初の勤務先、三菱系工作機械メーカーです。社長は殺人事件後に「無遅刻無欠席、優秀で、真面目で、能力が高く気遣いもでき、思いやりもある。将来を楽しみにしていた社員だった」と高い評価を語ったそうです。実際、病気を理由に小島が辞める時、会社の偉い人から、いろいろ条件を出されて、辞めないでくれ、と言われたと私が独自に入手した文書にあります。しかし、小島は「いわゆる岡崎」が会社よりも大事と判断したため、会社を辞めてしまいます。
これは小島が殺人犯になるか、ならないかの重要な人生の分岐点でした。
「いわゆる岡崎」への気持ちが強くて帰ったとしても、叔父から理不尽な扱いを受けた時点で、そこは理想の場所ではなかったと気づいて、元の機械工作メーカーに戻るべきでした。
ある人からそう伝えられると、小島は「工作機械メーカーに勤め続けていれば、犯罪者になった可能性があった」と答えてきました。その答えの詳細を読んで、小島の工作機械メーカー退職の本当の理由は病気でなく、次のようなトラブルがあったからだと分かりました。
川崎重工のレーザー加工機のU軸スクリューの交換期間が過ぎたので、小島が交換しようとしたところ、先輩が発注を間違えて、別の型式のU軸スクリューを取り寄せてしまいました。事情を知った上司は小島に次のように命令します。
「元のU軸スクリューは交換期間が過ぎただけで、まだなにも問題が発生していない。誤発注したU軸スクリューを古いグリースで汚して、元のU軸スクリューをキレイにしてから再び取りつけ、交換したことにして、代金を請求しろ」
小島はその命令を拒否して、先方に謝り、本社を通して、正しい型式のU軸スクリューを発注しました。命令拒否に怒った上司は、誤発注したU軸スクリューの費用を小島に払うように言いましたが、小島が本社に報告したら、当然のように、払わなくてもよくなります。
別のトラブルです。
小島が務めている鉄工所だと、レーザー加工機の点検は、通常1時間で済みますが、上司は次のように命令をしてきました。
「なにか問題が起こったふりをして、仕事をしているように見せかけて、そこに8時間以上はいて、点検整備料金を請求しろ」
こんな小さな鉄工所で1日も機械が動かせなかったら倒産してしまうと小島は考えたので、いつも通りに1時間で帰ります。すると、上司から「こんなことは、みんなやっていることだ!」と、ものすごく叱られたので、小島は「これは詐欺という犯罪です。たとえ私が捕まらなかったとしても、お客様は三菱からシーメンスへと乗り換えてしまうでしょう。短期的には我が社だけが儲かりますが、長期的には信用を失うので我が社は損害を受けてしまいます。本社の指示を仰ぎたい」と言い返しました。
別のトラブルです。
小島が高速道路で社用車を制限速度ギリギリで運転していると、後部座席の所長が小島の座席をガンガン蹴りながら、「もっとスピードを出せ」と言いました。小島が従わないと、小島のシートベルトを外しました。仕方なく、小島はハザードランプを点灯させてサービスエリアに入ったところ、上司からメチャクチャ怒られたそうです。
「工作機械メーカーに勤め続けていれば、私は詐欺か交通違反で犯罪者になっていたかもしれない」と小島は独自文書で主張していますが、詐欺か交通違反で捕まるのは上司や所長(上司と所長は同一人物かもしれません)の方です。
また、これらのトラブルは、小さい集団(内輪)の利益よりも、社会全体の道徳を重視する小島らしい事件です。
もっとも、上記の三つのトラブルは、小島だけの言い分です。犯行動機の「むしゃくしゃ出来事」が小島にとって都合の悪い事実は隠せるように、上記の三つのトラブルも、真実は違った姿かもしれません。あるいは、三つのトラブルは事実だとしても、小島にとって都合の悪いトラブルも少なからずあったはずです。
そう考える根拠は、「家族不適応殺」(インベカヲリ著、角川書店)の記述です。小島が工作機械メーカーを辞めて「いわゆる岡崎」に帰ってきた2016年、ハローワークに行くように勧めた祖母に小島は次のように言っています。
「どこに就職しても絶対できんに決まっている。俺、絶対おかしい」
工作機械メーカーの社長の高い評価から「私は刑務所の外でも実績を出していた。可能性でなく、事実として、そうである」と現在の小島は独自文書で誇っています。しかし、当時の小島は工作機械メーカー勤務で挫折感を強く味わっていました。本当に「刑務所の外でも実績を出す」意思を持っていたら、小島が次の就職を怖がることもなかったはずです。また、「刑務所の外でも実績を出す」能力が小島に「事実として」あったのなら、犯行前の2016年や2017年に就いたリサイクルセンターやA型作業所を短期で辞めなかったはずです。
プライドが高く、精神的に成熟していない小島は自分の弱みを隠して、強がります。刑務所の外でもその要素はあったでしょうが、刑務所の中に入って、それは重度に悪化します。その最たる例が、前回の記事にも書いた「刑務所がとても幸福だ」と小島が言い張ることです。
2020年1月以後、無期懲役となった小島について記します。
「家族不適応殺」によると、小島は刑務所の処遇に不平を言って、保護室に入れられ、絶飲食で治療も拒否します。体重は35kgまで落ちたそうです。2020年11月15日には東日本成人矯正医療センターに移送され、観察室に入れられ、小島は「感激です」「最高に幸福だ」と喜んでいます。観察室はトイレ以外なにもない点で保護室と同じですが、1面ガラス張りである点が保護室と異なります。
保護室で小島は、大便を身体や壁に塗りたくり、尿を口に含んで刑務官に噴きかけるなどして暴れます。そのたびに特別機動警備隊が飛んできて、催涙スプレーを噴きかけ実力行使で抑え込みます。小島は傷やアザだらけになり、常に全裸で、保護室内は血まみれでしたが、さらに自分の嘔吐物をまき散らし、床にこぼれた催涙スプレーの液体を全身に塗って激痛を味わうなどの自傷行為をしていました。
餓死する気で3度も山でホームレス生活をして、殺人行為も成し遂げた小島にとって、これらの問題行動は最適の自己表現であり、最高の快楽だったことでしょう。私も小島の立場だったら、同じことをしていたかもしれません。
この問題行動を2021年の初めころまでに、小島は止めます。小島は健康を取り戻し、横浜刑務所に戻されます。刑務所で小島は「保護室に入ること」「模範囚になること」の二つを目標にしていました。保護室の目標を達成した小島は模範囚の目標にかかります。
「横浜刑務所最高成績の囚人の生い立ち」に書いた通り、小島は最高の模範囚として、100人近い囚人をまとめていました。「素晴らしい世界が私の前に開けていました。工場担当と処遇担当に恵まれて、私はとても幸福な日々を送っていたのです」「老人の中に若者は私一人しかいません。みんなは私のことを孫のように、子のように可愛がってくれました」と小島は独自文書に記しています。
保護室にいるときも、工場労働者のときも、刑務所にいる間、小島は暇さえあれば申立書や意見提案書の作成をしています。「相談によって改善がされたことは数え切れず、多くの内規が私によって変わりました。私の働きで、世界が動く。この世界をもっとよりよいところにしていけるんだという喜び。全ての被収容者の自由と権利、人権のために闘って、受刑者の改善更生と社会復帰が円滑になるよう人生を捧げる」「刑務所で体験したかったことは全て体験した」と興奮したように小島は書いています。
しかし、「刑務所がとても幸福」な人生は3年程度で終わりを告げます。工場担当と処遇主任が変わったからです。独自文書によると、小島の申立書作成を処遇主任が担当抗弁と難癖をつけ、調査隔離となり、さらには工場を変更され、ついには保護室に入れられます。
小島は刑務所に入って、わずか3年で刑務所でしたかったことを全て成し遂げてしまいました。このとき、まだ26才です。平均寿命から計算すれば残り50年以上の人生の目標を持っていなかった小島は保護室での死を求めます。
小島は再度の治療抵抗を行いますが、2度目となると保護室に入る喜びも小さくなります。1度目は狂喜の自傷行為を繰り返しましたが、2度目はそこまでする気力はなかったようで、2022年11月8日以後、単に食事も飲水を拒否するだけだったようです。前回同様、小島は鼻から経管栄養を入れられますが、管を抜いて、抵抗します。抜管しないように両手両足両肩胴体を抑制され、経管栄養を無理やり入れられますが、小島は動けないまま何時間でも嘔吐を繰り返します。そのため、前歯は溶けてなくなり、セメントを詰めてもらったそうです。仕方なく、点滴でも栄養を入れていますが、隙あらば、小島は点滴も抜去します。そのうち、胃婁になるかもしれません、と小島は書いています。
ついに2024年7月頃、小島の体重は30㎏まで落ちます。この頃から、小島は食べさせられる時は食べるようになったそうです。
独自文書によると、「刑務所内は法を守ってくれる」と小島は期待していたのに、刑務所内でも(小島が期待するようには)法を守ってくれない場合がある、と知ったようです。小島は人生の目標を見失ったため、刑務所を愛する気持ちよりも、憎む気持ちが強くなったようです。これから死ぬまで、小島は刑務所を愛し、憎み続けるでしょうが、あと何年生きたとしても、憎悪のマイナスの蓄積が愛情のプラスの蓄積を上回り、マイナスを増やすだけの人生になるはずです。
ついに小島は「暴力こそが全てを解決すると知った。初めから暴力をふるっていればよかったのだ。私は刑務所に入って、暴力をふるうように改善更生された」と述べるほどに不幸になっています。もっとも、プライドの高い小島は現状を不幸と認めないと確信します。
「社会でうまく生きられない奴が刑務所でうまく生きられる訳がない」という問題に戻ります。
小島自身も認めている通り、刑務所内の職場だけで能力を発揮できる人など、まずいません。刑務所内の職場で能力を発揮できる人は刑務所外の一般社会でも、能力を発揮できる職場がほぼ確実にあります。また、かりに社会で働ける職場がなかったとしたら、犯罪者になって刑務所で養ってもらうよりも、生活保護を受給して一般社会で生きた方がいいはずです。
「一般社会でうまくいかないダメ人間だから、刑務所(少年院)で生きていこう」
こんな発想に陥る人は、小島に限らず、日本に何万人もいます。しかし、社会でうまくいかないのなら、刑務所ならもっとうまくいかないでしょう。図らずも、小島はそれを証明してくれています。
小島は不器用な性格なので、能力を発揮できる場所は限られます。実際、理想の刑務所内でも、工場担当者が変わっただけで、最高成績の模範囚から、保護室で治療抵抗する問題囚まで小島は落ちぶれて、2年以上も抜け出せていません。小島のように能力を発揮できる場所が限られる人なら、選択肢の少ない刑務所よりも、選択肢の多い社会の方がいいに決まっています。
こんな当たり前のことに、小島はなぜ気づかなかったのでしょうか。犯行前に、それを指摘し、小島を納得させた人がなぜいなかったのでしょうか。
次の記事で「なぜ倫理観の高い小島一朗が殺人を犯したのか」について考察します。