「新幹線無差別殺傷事件」についての一連の記事は、このブログでは初めて、私が犯人から独自に入手した情報が含まれます。一応、その証拠となる犯人直筆文書の写真を載せておきます。
2018年6月9日、東海道新幹線の中で無差別殺傷事件が起き、1名が死亡、2名が重軽傷となり、犯人の小島一朗には無期懲役が確定しました。その動機は「刑務所に入るため」であり、一審で小島の希望通りに無期懲役が言い渡されると、小島は万歳三唱して、裁判官に叱責されています。小島の生い立ちについて、「家族不適応殺」(インベカヲリ著、角川書店)を元に記します。
小島は1995年12月に母方の実家である愛知県岡崎市で生まれます。生まれた時の名前は鈴木一朗で、同県出身のプロ野球選手のイチローにちなんで名づけられています。
母方祖父は、自宅敷地内に小島と母が住むための家を建てました。これが「いわゆる岡崎」(本では「岡崎の家)と紹介されていますが、小島本人はこう呼んでいました)にあたります。小島にとって「いわゆる岡崎」とは「3食ご飯が食べられて、衣食住があって、人間関係があるところ」と著者との面会時に言ったそうです。敷地内には他に、祖父母が暮らす母屋と、叔父家族が暮らす家があり、どれも大工をしていた祖父によって作られました。
小島はこの「いわゆる岡崎」で3才まで過ごし、昼間は祖父母に、夜間は母に育てられます。当時、両親は別居しており、一つ上の姉は父と父方祖父母に育てられていました。3才になると、小島と母は、父の住む愛知県一宮市の家に引っ越し、年子の姉、両親、父方祖父母の6人での生活が始まります。
ところが、父方祖母は、小島の存在を快く思わなかったらしいです。「おまえは岡崎の子だ。岡崎に帰れ」「おまえは私に3年も顔を見せなかった」と繰り返しいじめられました。一方の姉は、生まれてからずっと一宮市の家で暮らしているせいか、かわいがられ、小遣い、服、部屋、物、菓子など、ことごとく差をつけられたようです。
母はホームレス支援をする相談所の仕事で忙しく、朝から晩まで家を空けていました。父も同じく仕事で外へ出ています。家事は全て父方祖母が担当です。この祖母から「嫁が姑からいびられるみたいに躾けられた」と小島は語っていました。
小学生まではじっと耐えていた小島ですが、中学生になると口答えするようになりました。すると、祖母の行動はエスカレートしていきました。「私はあんたの女中じゃない」と言って、小島に食事を作らなくなり、小島が勝手に食べようとすると、祖母は包丁を振り回して「食べるな」と言います。小島が風呂に入ろうとすると、祖母は「入るな」と包丁を向けました。
本にはそう書いた後、「にわかには信じがたい話だ」と続きます。私も同感です。小島はそう言っているが、事実を盛っている可能性が高いと考えます。包丁を向けたというのも、口論になった時、たまたま祖母が包丁を持っていた程度なのではないでしょうか。
当時、小島の部屋には母がどこからかもらってきた冷蔵庫とガスコンロがあり、お年玉を削って自炊で食いつないでいたと小島は言います。ときには雑草、猫じゃらし、イネ科のイヌムギや、虫、蛙、なども食べていたそうです。食べ方としては、蛙は茹でて皮を剥き塩で味付けして食べました。猫じゃらしは、ザルで実と毛を分離させ、実だけを残して生で食べました。
祖母の包丁持ち出しエピソード以上に、このエピソードはありえませんが、この詳細な記述からして、蛙や猫じゃらしを食べたことは事実でしょう。もっとも、食べたのは中学生の時期ではなく、成人後の失踪時かもしれません。
これを事実と考える根拠は、後に小島が横浜刑務所の高成績です。毎月満点の有料居室をとり、教育は毎月A評価で、作業成績も就業態度も割り増しをもらって、小島の務める工場は生産量が3倍にあがって、毎月優良工場になったそうです。同じ工場の囚人は長年いる者も含めて、「こんなことは初めてだ」と認めたそうです。約1000人が収監されている横浜刑務所で、当時、小島が最高成績の囚人だったでしょう。
中学2年のとき、小島は家庭内暴力で警察沙汰を起こしています。両親に向かって包丁と金づちを投げつけました。父はこの理由を、新学期に使う水筒が原因で「姉が新品で、彼はもらい物だったから」と報道陣に説明しています。小島はこの理由を「少年院に入るため」であり、「ご飯が食べられなかったから、国に食べさせてもらおうと思った」と述べています。
これをきっかけに小島は父と距離をとり、母の勤める相談所の貧困者シェルターに入りました。小島によると、母はこのとき「1日500円やるから、少年院に入るな」と言ったそうです。しかし、3日で払わなくなりました。前言をひるがえし「どうして私があなたを養わないといけないの」と言う母に、小島は「なら少年院行くわ、確かに母が養う必要はない。国家が私を養ってくれるだろう」と言ったそうです。母は「毎月1万5千円払う」とも約束したそうですが、実行されませんでした。だからお金をめぐって、包丁を向けたり、「少年院に入る」と叫んだりといったことを就職するまで毎月行っていた、と裁判で小島は証言しています。
小島は中2の途中から中学卒業まで、昼食を摂るためだけに学校に行っていたようです。ただし、ネットゲームで知り合った彼女が東京にいて、夏休みなどの長期休暇ごとに会いに行っています。この交際関係は小島が高卒後に愛媛県に転勤になるまで続きました。
児童相談所で知能検査を受け、ADHDと診断されたのは岡崎に引っ越した頃です。小島は5才の頃にも、児童保健所からアスペルガー症候群の疑いを指摘されていました。
貧困者シェルターは十二畳間に4人の共同生活で、小島は中2から高校卒業までの4年間半ほど暮らしました。小島はこのときも少年院に入る計画を実行しています。
ある雨の夜、一人のホームレスが運び込まれ、同じ部屋で寝ることになりました。その彼が深夜に苦しみだし、「助けてくれ、救急車を呼んでくれ」と小島に頼みました。しかし、小島は無視して病死する姿を観察していました。翌朝、警察が来ると、小島は「私がやりました、逮捕してください。少年院に入りたいのです」と告げました。警察は本気にしなかったのでしょう。母と警察が別室で話し合い、なにごともなく終わりました。
小島が通っていた定時制高校の成績はオール5です。さらに、高校卒業程度認定試験で単位を取り、4年のところを3年で卒業しています。
その後、職業訓練校に1年通った小島は、電気工事士の資格を取得します。2015年4月、20才になる年に、埼玉県にある三菱系工作機械メーカーの子会社に入社しました。メンテナンスや修理、機械の据付の仕事です。8月に愛媛県に転勤すると、仕事は多忙を極めました。朝5時から日付が変わるまで働くこともあったそうです。2016年1月、出血性大腸炎になり入院し、これを期に10ヶ月で退職となりました。
母方祖母の勧めもあり、小島は体を休めるため、3才まで過ごした「いわゆる岡崎」で暮らします。しかし、同じ敷地内に住む叔父が、それを快く思いませんでした。小島によると、叔父からの暴力により、わずか10日で追いだされます。現実の「いわゆる岡崎」は、小島の理想とする「いわゆる岡崎」と全然違っていた、と著者に述べています。
一方、母方祖母によると、叔父が小島にキツく言ったことを認めているものの、叔父の暴力があったかはあいまいです。なんにせよ、「いわゆる岡崎」に住めず、アパートで独り暮らしすることになって、小島は大きなショックを受けます。ホームレスになって、あちこちさまよい、岐阜県の美濃加茂で警察に保護されます。家族と話し合い、小島はやはり「いわゆる岡崎」での暮らしを希望します。
母方祖母は歓迎し、岡崎で祖母と一緒に暮らします。ある時期が過ぎて、祖母は職業安定所へ行くことを提案しますが、小島は「どこに就職しても絶対できんに決まっている。俺、絶対おかしい」と拒否するので、小・中学校の頃に児童相談所から紹介された三河病院(精神病院)にかかります。医師に会うなり小島は「俺は絶対人と違うから」と述べ、2月ほど任意入院をします。
小島は障害者雇用(従業員を40人以上雇用している事業主は、障害者を雇用者数の2.5%以上雇わなければいけない)を希望し、祖母は「どこが障害者なのか」と反対しましたが、精神科医に診断書を書いてもらい、障害者手帳を持つことにします。
2017年のいずれかの時期で、障害者雇用枠で小島は家電リサイクルの仕事をしましたが、1月半しか続きませんでした。
また、2017年のいずれかの時期で、叔父とケンカして、三河病院に措置入院していますが、入院費用を支払うと祖母が約束していたのに、破ったので、小島の意思に反して、退院になっています。
2016年から2017年の冬、またも叔父が「就職しろよ、こんなところにいちゃいかん。やっぱしおまえは一宮の家に行け」と怒り、「いわゆる岡崎」で暮らしたい小島とケンカになります。小島は再び家出し、自転車で長野県まで行きます。そこで野垂れ死ぬ予定だった小島は祖母に電波時計と辞世の句を送ります。しかし、数年後、著書のインタビューで、祖母は電波時計が届いたことは覚えていても、小島が魂を込めて書いた辞世の句を覚えていませんでした。
電波時計の送り元が諏訪のホームセンターと分かると、祖母と母はすぐに諏訪に向かいます。もう雪が降り積もる時期でしたが、1周16㎞の諏訪湖の周りを祖母と母で歩いて探しました。けれど見つかりません。一泊して、愛知県に帰り、翌日、祖母と叔父が車で再び諏訪に向かいます。偶然にも、諏訪湖でチェーン切れした自転車をひいている小島を見つけ、そのまま小島を岡崎に連れて帰ります。
2016年か2017年の夏、今度も叔父は小島にアルバイトを勧めるため、ケンカになり、小島は家出し、長野県の山の中にある裏寝覚(うらねざめ)で1週間くらい寝泊まりしました。警察に保護されたので、祖母と母が迎えにいきました。
小島が帰ってくると、叔父は「なんでここ(岡崎)に帰ってきた。一宮に行かないのか」と怒鳴り、ケンカになり、小島が包丁を持ち出したこともあり、祖母は警察を呼びます。祖母によると、警察は小島や祖母の話を聞かず、包丁向けられた叔父の話しか聞かなかったそうです。叔父と小島のケンカでは、祖母はいつも小島の味方でした。
それにしても、なぜ叔父はそこまで小島に「一宮に行け」と言うのでしょうか。叔父の家も、「いわゆる岡崎」(小島が3才まで暮らした家)も造ってあげたのは当時亡くなっていた祖父です。祖母は叔父夫婦に車や220万円もするシステムキッチンまで買い与えてきたそうです。祖母(叔父の母)が孫の小島を、叔父の家でなく、「いわゆる岡崎」に暮らさせることに、叔父がとやかく言う正当性はないはずです。
本によると、祖母は「やきもち焼くとか。そこらへんじゃないかなあ。(叔父が)一朗に出て行けって(言う)理由ないから」と浅い見解しか言っていません。その程度の嫉妬心なら、なぜ祖母は叔父(自分の息子)を強く叱責して、黙らせなかったのでしょうか。それさえしていれば、小島が殺人事件を犯すこともありませんでした。
叔父を黙らせるかわりに、祖母がしたことは小島との養子縁組でした。
「一郎を自分(祖母)の子にする。そしたらあんた(叔父)も一緒の立場だよってこと。大事な大事な一朗に、誰も手を出させないようにした」
私には意味不明な理屈ですが、著者は「なるほど」と納得しています。その後、叔父が小島に干渉しなくなったかどうかは重要なはずですが、本には書かれていないので不明です。
もっとも、本の別のページには「2016年11月頃、母方祖母から、家督を継げば祖父の遺産である三千万円を(一朗に)相続させると言われた」とあるので、叔父に手を出させないためよりも、一朗への遺産相続が祖母の目的だったのではないでしょうか。ただし、正式に養子縁組したのは、本によると2017年9月です。
2017年12月20日、1月ほど続けたA型作業所に「ホームレスになりたいから辞める」と小島は告げます。
翌21日から、小島は「いわゆる岡崎」を出ると祖母に告げます。祖母は交番に電話して相談しました。警察は祖母からの相談には慣れていました。警察は「行きたいという人を止めたって、おばあちゃんがちょっと目を離したすきに行っちゃうよ」と祖母をたしなめ、小島に「おばあちゃんに連絡するんだよ。人に迷惑かけちゃいかんよ。間違っても自殺なんかしちゃあかんぞ、分かった?」と言って、小島は「はい、分かりました」と答えました。祖母は小島に70万円の入ったキャッシュカードを無理やり持たせて、送り出します。
祖母は「すぐ帰ってくるだろう」と思っていましたが、以後、小島は二度と家には帰ってきませんでした。岡崎から自転車で以前にも行った裏寝覚に向かい、12月29日から裏寝覚の小屋で寝泊まりします。即身仏のように餓死する目的でした。
食事は主にサプリメント、葛根湯、塩、抹茶、無水アルコール、ハッカ油、クエン酸、ゼロカロリーコーラです。水だけ飲んでいると、肉がついた状態で死んでしまいます。即身仏として骨と皮だけのガリガリになるには、必須アミノ酸、ビタミン、ミネラルは摂った方がいいと考えていました。
ときおり観光客や地元民が訪れ、小屋で寝ている小島に声をかけてきました。「世をはかなんで旅をする者です」と小島が答えると、食事を摂っているか心配されることも多かったようです。小島は用意していたフルーツグラノーラを見せて安心させ、パンやコーヒーをもらった時は、拒むことなく食べて見せました。
裏寝覚の冬は氷点下14度にもなります。小屋に壁はなく、寝袋ごと雪に埋もれます。置いてある竹ホウキで、小屋の雪をはらい、暖をとるため、登山用のガスコンロでお湯を沸かし、蓋つきの空き缶にお湯を注いで湯たんぽを作りました。
祖母は毎日のように小島の携帯に電話をかけましたが、小島が出ることはほとんどありませんでした。2018年3月16日、小島は祖母に最後となる電話をします。
祖母「帰っておいで」
小島「帰ることはありえない。生きるなら刑務所であり、死ぬなら餓死だ。迎えに来たら殺す。私を放っておいてくれ」
すると祖母は怒って言いました。
祖母「養子縁組を解消する。小島家の墓に入れない」
小島「私が一番やりたいことは、刑務所に入ることだ。餓死してやるのは家族のためで、そんなことを考えなくていいのなら、刑務所に入るぞ」
これに対して祖母は「無駄に重ねたわけではない年寄りの知恵でなんとかする」と答えたそうです。著者によると、この言葉に小島は強くこだわっています。これを「(小島が)刑務所に入っても、(祖母が)家族に迷惑はかからないようにする」と受け取ったようです。
祖母「恨んでいるか」
小島「恨んでいない。これがお互いにとって一番いいことなんだ。私は刑務所に入りたいんだから」
祖母「おまえは私を恨んでいるんだ」
小島「なら勝手にそう思っておけ」
最後にそう言って、電話を切ったそうです。もっとも、祖母はこのような会話があったことを否定しています。特に「養子縁組を解消する」なんて言うわけない、と否定しています。警察での取り調べでも、祖母は一貫して否定しました。
祖母との電話後、すぐに小島は近くのコンビニに向かい、消化の良いゼリーなどを買い込んで食べました。この祖母との電話により、餓死を止め、念願の刑務所行きを決めたそうです。
もっともそれでもまだ、小島に迷いはあったため、その後も裏寝覚での生活は続きました。しかし、3月21日から22日、警察に裏寝覚の生活を邪魔されます。この警察の邪魔が殺人の最後の引き金なのですが、なんと小島は減刑になることを恐れ、裁判でそれについて一切述べませんでした。この事件については、次の記事で詳述します。
3月23日、小島はついに裏寝覚から出て、諏訪に行きます。朝5時半に温泉に入り、8時になると岡谷図書館に行き、閉館まで本を読みました。食事は、焼き肉、寿司、ウナギなど好きな物を食べ、人を殺せるほどの体力を取り戻そうとしました。夜8時には諏訪湖周辺で寝袋に入り、養命酒を飲んで眠りました。3日に1度はコインランドリーに行き、野宿以外で、ネットカフェに泊まることもありました。2ヶ月間ほど、このような生活を繰り返し、体力が完全に回復したと判断した6月9日、新幹線無差別殺傷事件を起こします。
次の記事に新幹線無差別殺傷事件の直接の動機について書きます。