孫文といえば、台湾だけでなく中国でも、「国父」として神格化された存在です。しかし、その実像は、中国人はもちろん、台湾人ですら、ろくに知られていません。
「孫文」(深町英夫著、岩波新書)によると、孫文の絶頂期は1912年1月1日の辛亥革命時の臨時大総統就任の宣誓式です。しかし、辛亥革命、あるいは武昌蜂起は孫文が主導したものではありません。武昌蜂起当時、孫文はアメリカにいたので、主導どころか、参加もしていません。
辛亥革命は、四千年以上続いた中国の君主制を廃止させたので、文字通りに革命的事件です。ただし、帝政廃止、共和制国家設立は、孫文が帰国する前に決まっていたことで、辛亥革命での孫文の功績はわずかです。
革命後も、中華民国臨時政府が存在していたのは1913年10月10日までで、2年未満で潰えています。そのうち、孫文が臨時大総統に就いていたのは1912年2月14日までと、わずか2ヶ月未満です。もっといえば、孫文は1913年8月8日には日本に亡命、つまり逃げています。以後、3年間、孫文は日本で過ごしますが、自己への絶対服従を仲間に要求したため、護国戦争では蚊帳の外に置かれました。
1917年から孫文は南部(広東)を中心に勢力を広げますが、軍閥をうまく操れず、北伐の途中、「革命いまだ成らず」の言葉を残して、1925年に亡くなります。
大局的に見れば、孫文は1912年の帝政廃止から1949年の中国統一までの激動の時代に活躍した無数の革命家たちの一人に過ぎません。孫文より知性の高い革命家も、孫文より政策実現能力が高い革命家もいたに違いありません。しかし、この激動の時代の中で、過去も現在も、孫文より人気のある革命家はいませんでした。
辛亥革命の初期の段階、1911年11月で既に有名無名の多くの中国人が、なぜか「大総統になるのは孫文しかない」と考えていました。同年12月29日の臨時大総統選挙でも、孫文は各省17票中16票を集め、圧勝しています。
なぜ辛亥革命時に、孫文がここまで神格化されてしまったのか、私には謎です。もしこの疑問に答えられる方がいたら、下の「コメントを書く」に情報源とともに記入をお願いします。
現在だったら、一発で政治生命が終わる孫文の女性スキャンダルを次に書きます。
孫文は中国に妻がいるにもかかわらず、1902年に亡命中の日本で大山薫と結婚し、その他に日本人の愛人まで作って、常に同伴させていました。さらにいえば、大山薫を妊娠させたものの、出産前に孫文は帰国し、母子のためにお金も送付しませんでした。もし現在の中国の有力政治家がこんな過去を持っていたら、大スキャンダルで、死後も批判され続けるに違いありません。付け加えておくと、1913年に日本に再亡命した後、結婚したはずの大山薫には一切合わず、孫文は浙江財閥の宋慶齢と結婚しています。
私が孫文により失望したのは、宮崎滔天や頭山満という怪しい人物と親しすぎることです。こんな胡散臭い日本人と仲良しなら、少なくとも現在の価値観だと、評価は低くなるはずです。
日本で孫文の評価が高いのはまだ分かるにしても、台湾、まして中国で孫文がいまだ神格化されていることは、滑稽としか思えません。