「人びとのなかの冷戦世界」(益田肇著、岩波書店)によると、タイトルの答えは毛沢東の気まぐれとしか言いようがありません。
毛沢東が最初に参戦を要求されたのは、中華人民共和国の建国1周年の1950年10月1日です。その夜のうちに毛沢東は中国参戦の電報を作成しますが、それは打電されませんでした。翌日の10月2日、毛沢東以外の共産党の全幹部が中国参戦に反対したからです。林彪も、人民志願軍の司令官になる毛沢東の要請をすげなく断っています。10月2日夜、毛沢東は駐中ソビエト大使のロシチンに「第一に、かりに参戦しても中国軍の装備が貧弱なため、アメリカ軍は中国軍を完全に制圧すること」「第二に、中国参戦は米中全面戦争を引き起こしかねない」の理由とともに、参戦準備が整っていないと述べました。
しかし、毛沢東はそれで諦めず、10月4日から5日に中央政治局拡大会議を開き、参戦するよう主張します。4日はやはり参戦反対が会議を席巻していましたが、5日に彭徳懐が西安から北京まで飛行機でかけつけて主戦論を主張すると、参戦で決まります。
しかしながら、その後2週間にわたって、この参戦決定が二転三転します。なぜなら、中国の参戦は、ソ連空軍が中国陸軍を支援する前提のもとに成り立っていたのに、ソ連空軍が支援するか曖昧だったからです。曖昧どころか、10月10日から11日、黒海沿岸まで訪問した周恩来と林彪にスターリンが「ただちにソ連空軍を朝鮮に送ることはできない」と明言までしました。これで周恩来と林彪は、中国の朝鮮出兵は不可能だとみなしました。結果、スターリンと周恩来は連名で毛沢東に「中国は参戦しないこと」「北朝鮮軍にはゲリラ戦の継続を勧めること」の二つの決定を10日に電報で知らせます。12日には、毛沢東は「その取り決めに賛同すること」「既に出兵計画の中止を指示したこと」と返電しました。それに加えて、山東省駐留の中国軍師団の東北部移動計画も毛沢東はキャンセルしています。
13日、スターリングは「中国は参戦しないこと」を金日成に打電し、今後は中国東北部でゲリラ戦術をとるように勧めます。
これらの事実から、10月25日の中国軍の大攻勢は導かれません。この流れなら、朝鮮戦争は国連軍・韓国軍の朝鮮半島統一で1950年に終わっていたはずです。この中ソの両最高権力者の決定を誰がいつ覆したのでしょうか。
その答えは「毛沢東が10月12日夜から13日早朝に覆した」になります。なんと毛沢東は12日に、出兵中止の連絡をスターリンに送る一方で、既に東北部に赴いていた彭徳懐と高崗を北京の緊急会議に召喚しています。その夜通しの会議で、参戦する他ないとの結論にたどり着いていたのです。13日、スターリンが金日成に「中国は参戦しない」と打電した同じ日に、毛沢東は前日と正反対の内容、つまり「中国は参戦する」との決定をスターリンと周恩来に打電します。
この打電を受け取ったスターリンの気持ちはどうだったのでしょうか。私なら、わずか1日で考えが正反対にブレる人と一緒に戦争する気にはなれません。今後、毛沢東の言葉をどこまで信用していいか、疑心暗鬼にもなるでしょう。
ともかく、上記の流れから、朝鮮戦争が韓国の統一で終わった可能性も十分あったと断定できます。12日、スターリンに打電した後、イライラした毛沢東が常用している睡眠薬をいつも以上に服用して、そのまま寝ていれば、中国の参戦はありませんでした。あるいは、スターリンと周恩来、または彭徳懐と高崗が「もう参戦しないで決定したはずだ」と理を通せば、中国の参戦はなかったでしょう。
韓国が朝鮮戦争で勝利したなら、毛沢東が最も恐れたこと、国民党政府の反抗が勢いづき、中国共産党が中国から追い出される結果になったかもしれません。ベトナム戦争でも、ソ連や北ベトナムが「どうせ負けるから」とろくに抵抗せず、南ベトナムによる統一で終わっていたかもしれません。また、現在の日本に拉致やミサイルなどの北朝鮮問題が存在しなかったことも間違いありません。
この事実を知ると、世界史もたった一人の気まぐれで、大きく変わることを実感します。同時に、未来は誰にも予想できないこともよく分かります。
次の記事で、朝鮮戦争を左右した二つの奇襲に注目します。