「人びとのなかの冷戦世界」(益田肇著、岩波書店)によると、朝鮮戦争が1950年6月25日から始まった、との認識は当時、誰も持っていませんでした。多くの韓国人は1945年からずっと内戦は継続していて、1950年6月25日の北からの大攻勢は、その内戦の一部として認識していたようです。韓国は朝鮮戦争を「6・25戦争」と呼んでいますが、その理由は「1950年6月25日からの戦争は、それ以前の内戦と全く違う(北朝鮮の侵略戦争である)」と示したいからです。
ここで「朝鮮戦争の謎」の記事の訂正です。この記事では、国連の決定→アメリカの派兵決定との前提に立って記事を書いていますが、事実誤認です。正しくは、アメリカの派兵決定(6月27日)→国連安保理で国連軍の投入決定(7月7日)でした。だから、スターリンが国連安保理で拒否権発動しなかったのは、やはり「拒否権発動しても、アメリカ軍の参戦は変わらないから」で間違いありません。
このように、アメリカの派兵はこの戦争の名前もまだ確定しない早期に決定されました。ここまで早いと「1950年当時、北朝鮮が韓国に全面戦争を仕掛けてきたら、アメリカは即座に軍事介入する」と以前から決めていたと普通なら考えます。それが全くの間違いであることが「朝鮮戦争の正体」(孫崎亨著、祥伝社)で繰り返し述べられています。
たとえば、マッカーサーは1949年3月1日、韓国は軍事的に防衛不可能だから、米軍の撤退は当然である、と語っていました。その言葉通り、1949年6月29日、最後のアメリカの戦闘部隊1500名が仁川港から撤退します。残ったのは500名のアメリカ軍事顧問団と、金浦空港を運営するアメリカ空軍要員150名だけです。さらに、1950年1月12日、アチソン国務長官が「防衛境界線はアニューシャン列島に沿い、日本に行き、そして琉球に行く」と述べました。普通にこの線を結べば、朝鮮半島がアメリカの防衛ラインに入っていません。
北朝鮮軍が韓国に全面侵攻すれば、アメリカ軍が介入してくる可能性をスターリン(ソ連)は危惧していましたが、金日成は上記のような観点から「アメリカの介入はない」と考えていました。毛沢東も同様です。
「中国でさえ見捨てたアメリカが、取るに足らない朝鮮半島の国内問題(内戦)に首を突っ込んでくることはない」と考えていた専門家は、西側にもいました。というより、上記の通り、マッカーサーやアチソンがそう証言していました。むしろ、現在でも「アメリカが何十年も前から莫大な資金と労力をかけた中国の共産主義化を見逃したのに、なぜアメリカが見捨てつつあった韓国の共産主義化を全力で止めようとしたのか」に論理的な答えはないでしょう。もっとはっきり言えば、論理的には間違っています。
だから、アメリカが朝鮮戦争に介入しない理由は十分ありましたし、可能性も十分ありました。
朝鮮戦争の軍事介入を最終決断したのは大統領のトルーマンですが、このトルーマンですら北朝鮮軍の全面侵攻を聞いた夜(アメリカ時間で6月24日夜)は、普通に寝ました。寝る前にわざわざ補佐官に、この侵攻で「(生まれ故郷インデペンデンスでの)休暇を短くするつもりはない」と伝えたほど、大した問題ではないと考えていました。
しかし、翌日、アチソンと電話会談して、ダレスからの電報を受け取ると、トルーマンは即座にワシントンに向かい、朝鮮半島と台湾海峡の両方に米軍派遣を決定します。
つい半年前、朝鮮半島は防衛境界線外のような発言をしたばかりのアチソンが、なぜ朝鮮半島に米軍派遣するように要請したのでしょうか。私の管見の限りでは、明確には分かりませんでした。ダレスの影響かと推測するくらいです。
もし朝鮮戦争でアメリカ軍が介入しなければ、1950年秋くらいに朝鮮半島は前年秋の中国同様、共産主義国として統一されていたでしょう。台湾も中華人民共和国に占領されていたかもしれません。そうなると、日本が共産主義の防波堤の最前線になるので、日本の再軍備がさらに強化され、場合によっては核を保有し、米軍基地もさらに強力な形で存在し続けたかもしれません。
もしそうであるなら、北朝鮮が1950年6月25日に全面侵攻した後、アメリカ軍の派遣決定は、日本にとって好ましかったと思います。
一方で、そもそもアチソンやマッカーサーが「アメリカは韓国をなにがなんでも守る」と明確に宣言していれば、金日成は韓国に大攻勢をしかけず、朝鮮戦争が起きなかった可能性が高いことも覚えておくべきでしょう。
次の記事で、「なぜ中国は朝鮮戦争に参戦したのか」を考察します。