未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

内面だけでなく外見も重要である

相手の気持ちを最優先する日本と道徳を最優先する西洋」とほぼ同じ意見の記事です。

なぜ外見から内面まで判断してしまうのか」と「ここまで浅い日本人の人間観」で内面重視すべきとの記事を二つ書いたので、あえて、その反対意見の記事も載せておきます。このブログを読むような人は、私同様、内面を重視し、性格(話し方や立ち居振る舞い)を軽視しすぎる失敗をしているように考えるからです。

たとえ事実であっても、正しい意見であっても、言うべきでないことは世の中にいくらでもあります。たとえば、「あんた、デブだね」は事実であっても、思っていても、言うべきでないことは誰もが認めるでしょう。

直接的な表現ばかり使う人は、大抵、嫌われます。性格が悪い、キツイと判断されます。日本ほどではないですが、これは西洋でも同じです。たとえ同じ言葉だとしても、大きな声でハッキリ言う人も、同様です。「自分はハッキリ言ってほしい。まわりくどい言い方される方がよほど嫌だ」と言う人に、私も会ったことがありますが、その人は直接的な表現で傷ついたことがあまりないか、体育会系の人(上意下達が好きな人)でした。私の知る限り、「ハッキリ言ってほしい」と言う人でも、本当にハッキリ言われると、やはり傷ついていました。

なお、体育会系の人、あるいは上意下達が好きな人は、上の人からははっきり言われることを好みますが、下の人からはっきり言われることを極端に嫌います。つまり、倫理観に問題があるのですが、本人にその自覚は全くありませんでした。

私は高校生くらいの頃、日本語の敬語が大嫌いでした。意見表明方法などに気を遣うあまり、純粋な意見交換が阻害される、なにより社会的地位を固定することになる、と考えていました。その考えが完全に間違っているとまでは今も思いませんが、相手に敬意を払うことは重要だ、と大学生くらいには考えが変わりました。実社会で、敬語そのものではなくても、こちらに敬意をはらっていない相手と話していると、敬語は不要と考える自分でも、やはり腹立たしいと分かったからです。それ以後、私は敬語を使わない失敗よりも、必要以上に敬語を使う失敗の方が多いです。それでも、相手に敬意を払わない失敗をするよりは、相手に敬意を払う失敗をする方がマシだと思っているので、親しい友だちでも、私は基本敬語で話しています。

どんなに素晴らしい意見であっても、言い方や表現方法が拙かったら、価値が下がります。場合によっては、反対の価値になることもあります。もしこの見解に同意できなかったとしても、ほとんど人はこの見解通りに感じてしまうので、相手を傷つけないためにも、そして、自分が相手から反撃されて傷つけられないためにも、この社会で生きる以上、この見解は十分に認識しておくべきでしょう。