未来社会の道しるべ

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日本人は集団主義ではなく身内主義

1987年9月に後に重症心身障碍者と診断される娘を出産した母の「殺す親 殺される親」(児玉真美著、生活書院)からの抜粋です。

その小児科医は横柄な態度で、椅子にふんぞり返り、児玉が挨拶しても、返事もしませんでした。児玉の娘の脳波記録用紙を見て、「うっわあ。脳波はぐちゃぐちゃじゃあ!」「この子は、脳なんか、ないようなもんでえ」と目の前に座っている児玉をまるきり無視したまま言って、向かいの机で書類仕事をしていた若い医師に「おい、ちょっと、これ見てみいや」とCT画像を指さして、「ここも、ほれ、ここも萎縮しとる。ひどいもんじゃろうが。の?」と話しかけました。小児科医はしばしCT画像をあれこれ論評すると、やっと椅子を回して児玉の方を向きます。そして、奇妙な形に自分の身体を捻じ曲げて見せながら、「あんたーの。この子は将来、こんなふうに手足がねじれたまま固まってしまうんど」と言います。その目つきと口調は「どうな、恐ろしかろうが?」というものでしかなく、児玉はなぶりものにされている、と感じました。科学的な説明が出てくる気配は皆無でした。なおも将来どんな悲惨な状態になるかを演じてみせる小児科医の話を遮って、児玉が「ありがとうございました」と告げて、部屋を出ていきます。同じ日のうちに、京大文学部卒の児玉が病院長宛ての便箋11枚の抗議の手紙を書いたのは当然です。

数日後に医事課長から電話がかかってきて、医師と一緒に謝罪にうかがいたいと言われますが、児玉は顔も見たくない、書面で謝罪してほしいと突っぱねます。さらに数日後、「あまりに脳波所見が異常だったので、つい思った通りを口にして申し訳ありませんでした」という趣旨の手書きの謝罪文が小児科医より送られてきます。

児玉が驚いたことに、この小児科医は暴言医師として地元の親の間では有名な存在でした。親たちに浴びせられた様々な暴言のほかに、個人的に知り合ったセラピストからも仰天のエピソードを聞いたそうです。この医師はリハビリ学生の授業で「ダウン症」と板書して、「まあ、これは要するに、バカのことじゃ」と言い放ち、講義終了と同時に数人が教務課に抗議に言った伝説を残していたりしました。

知れば知るほど、なぜそんな小児科医が大病院の指導的な立場にいつづけられるのか、児玉は不思議でなりませんでした。ある医師は私の体験を聞くと、「外科医なんかだと、腕さえよければ人間性は問われないというのが医療の世界では常識みたいなものさ」と自説を展開し、「あの先生も決して悪い人じゃないんだよ。僕が学会で発表した時には、会場からなかなか良い試みだと褒めてくれたしね」と、随分的外れな感想をもらした。暴言に傷ついている母親を前にそのような反応をする医師も、児玉には理解不可能でした。

 

私は医療職に従事しているので、上記のような暴言医師が大病院なら一人くらいはいること、暴言医師が年功序列で出世してしまうこと、その暴言医師に疑問を持たない大多数の医師がいることを知っています。ただし、「医療の世界にはどうして無神経な人が多いのだろう」と当初嘆いていた児玉も、さまざまな医療体験をへて、そのような人はごく少数で、大半な医療職とは良好な信頼関係を築けるようになっています。確かに変な医師、倫理観の崩壊した医師が少なからずいるのは事実ですが、倫理観など全く要求されないような職場の人と比べれば、まだマシだと私の人生経験から言えます。

それでも残念なのは、児玉が言うように、そんな医師が解雇されないばかりか、そんな医師を擁護する医療職が多くいることでしょう。日本だとどこの職場でもそうですが、上司も部下も道徳などは要求されません。内輪のルールさえ従っていれば、社会全体の利益などはどうでもいいのです。私が社会全体の視点で語った時に、「なにを言っているか分からない」と日本人に反応されたのは、100回で足りないでしょう。医療職だろうが、司法職だろうが、場合によっては政治職であっても、社会全体の利益よりも内輪の利益が優先されがちです。

個人主義というより世界人間主義」に書いたように、「西洋は個人主義で日本は集団主義」という考えは間違っています。正しくは「西洋は普遍主義で日本は身内主義」でしょう。「日本人である前に人間である」でも嘆いたことですが、日本人こそ身内だけの小さい利益ではなく、人類全体の利益を考えてもらいたいです。