未来社会の道しるべ

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死刑により罪が償えるのか

前回の記事の続きです。

1979年~1983年の半田保険金殺人事件で、被害者の兄である原田は「死刑以外に考えられない」と一審で発言しています。原田には、弟の死後に保険金1400万円が支払われていました。しかし、犯人の長谷川の逮捕後、弟が交通事故死でなく殺されたと分かると、その1400万円を返却しろ、と保険会社から連絡がきます。そのうちの200万円は「弟の交通事故で大型トラックを失った被害者」の長谷川(実際は弟の殺人犯)に貸していたので、返ってきません。また弟の葬儀などでかなり金を使っていたので、心底から困り果てて、近隣の弁護士事務所を訪れましたが、安くない相談料を取られた末、有益な助言はもらえませんでした。町役場に相談しても、「対応できない」と素っ気なく言われるだけです。仕方なく保険会社に必死で事情を説明し、慣れぬ交渉の末に一部を免除してもらったものの、それでも不足していた分の工面に苦労します。

一方、平日に開かれる公判を欠かさず傍聴するため、原田は仕事を懸命にやりくりして、名古屋地裁に通い詰めます。しかし、バブル経済真っ盛りの多忙期に何度も有休申請する原田に職場の上司は露骨に嫌な顔をしてきます。公判前日のある夜に遅くまで残業していた際は、疲労のためか右手の薬指の先を機械に挟まれて切断してしまいます。誰もいない工場で止血し、自ら運転して病院に向かった時は、怒りと痛みと情けなさで泣きたくなったそうです。次から次に降りかかってくる不幸の全ての元凶は長谷川にある、と原田が考えたのも当然でしょう。

一審でも二審でも長谷川は死刑判決を受けます。原田は嬉しくともなんともなく「当然じゃないか」と思うだけでした。とはいえ、二審が終わってからの数年間は、原田にとって久しぶりに穏やかな時期となります。バブルも崩壊して、仕事の繁忙期は過ぎ、控訴審後は公判通いをする必要もありません。原田は昔からの趣味だった考古学や古墳の探索に時間を割く余裕も出てきたそうです。

原田の元には長谷川から手紙が何通も届き続けていました。最初は開封する気もならず、ゴミ箱に投げ捨てていましたが、1990年頃になると、一通りは目を通すようになります。手紙には毎回、謝罪の言葉がびっしりと書き連ねられていました。初公判の頃から心情が少しずつ変化しているのに、原田自身も気づいたそうです。自分でも理由が分からないようですが、原田から長谷川に返信を書くようになります。

1993年、ついに原田は拘置所の長谷川に面会までします。原田の面会がよほど嬉しかったので、長谷川は満面の笑みを浮かべて現れて、そして深々と頭を下げます。

「本当に……。本当に、申し訳ありませんでした。こんな愚かな人間のため、皆さんに迷惑をお掛けしてしまって……」

原田は拘置所という異質な雰囲気に気おされ、ほとんど言葉が出てきませんでした。ただ、長谷川が「本当にありがとうございます。これで私はいつでも喜んで死ねます」と言った時には、原田は思わず「そんなこと、言うなよ……」と返したそうです。

そんな原田と長谷川の拘留は、1995年に途絶えてしまいます。これまで「特例」として面会を認めてきたが、今後は一切認めないと拘置所幹部に告げられました。真の理由は不明ですが、名古屋拘置所の所長交代が大きな要因のようだ、と本には書いてあります。

面会不可の決定に、原田は納得できませんでした。少しずつでも対話を重ねることで、長谷川の心を感じ取り、自分の気持ちを徐々に伝えていけるとの確信を深めていたのです。同じころに、手紙のやりとりまで禁止されます。原田と長谷川の意思疎通は完全に閉ざされてしまいました。しかも、手紙の禁止の理由として、「原田さんが迷惑しているから」と拘置所側は長谷川に伝えていました。

理不尽な対応と事実と異なる連絡に憤った原田は拘置所に何回も面会を申し入れ、知り合いになった中日新聞に自身の気持ちを伝え、記事にしてもらいます。それでも拘置所の対応が変わらなかったので、実名でメディア取材に応じ、死刑廃止を訴える団体の集会でも、自らの主張を訴えました。

実名で行動を始めると、自宅に無言電話や嫌がらせの電話がかかってきて、妻は子どもを連れて、家を出ていきます。それでも、長谷川との面会を原田は諦められませんでした。2001年には法務大臣と面会し、長谷川の死刑を望んでいない気持ちと面会を求める心情をしたためた上申書を手渡ししています。さらには、弁護士の求めに応じて、長谷川の恩赦請求にまで協力します。しかし、2001年末、長谷川の死刑は執行され、長谷川と再び面会するために起こした原田の全ての行動は徒労に終わります。

長谷川の葬儀は、原田も参列しています。その時でも原田は長谷川を許す気持ちは全くなかったそうですが、原田の心中でたぎる憤怒の情は長谷川ではなく、法務省拘置所当局に向かっていました。

被害者感情を声高に主張するくせに、結局のところは被害者とその関係者の気持ちを少しもくみとってくれないではないか!」

「絞首刑」(青木理著、講談社文庫)で何度も書かれていることですが、死刑囚の面会を制限する法律は日本のどこにもありません。法務省拘置所、刑務官の裁量で、どうにでもできる問題です。

もちろん、面会を制限すべき死刑囚もいるとは思いますが、上記の例は、明らかに面会を許すべきです。これで面会を許さない理由が分かりません。「死刑囚に不必要な刺激を与えないため」という理由を拘置所側はよく述べますが、それは名目的な理由でしょう。実質的な理由は「上の命令だから」「伝統的にそうだから」であり、そこから先は思考停止しているのでしょう。「ルールの存在意義を日本人は考えるべきである」に書いたように、法律に定められているわけでもない習慣(ルール)に盲目的に従うバカはやはり日本に多いようです。

日本とアメリカの36州は主要先進国で死刑を残す最後の二ヶ国ですが、「絞首刑」(青木理著、講談社文庫)によると、透明性と情報公開度で、両国の差は途方もなく大きいそうです。

日本は執行前日に本人だけに通知されるのが普通なのに(当日通知もある)、アメリカでは執行日は30日以前に決定され、その情報は公開され、インターネットで執行日の検索まで可能です。日本は死刑確定後に普通なら面会不可ですが、アメリカでは本人が許せば誰でも面会可能です。ミズーリ州は、死刑囚との面会には施設職員の立ち合いすらありません。日本では執行の際、犯人家族や被害者遺族の立ち合いはありえませんが、アメリカでは犯人家族は被害者遺族は原則立ち合い、ジャーナリストが立ち合える場合さえあります。