未来社会の道しるべ

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日本のジャーナリストはなぜ取材相手を必要以上に擁護するのか

以前も指摘したことですが、日本のジャーナリストは取材しているうちに、取材相手に抱き込まれ、社会良識を捨ててまで(本人はそう自覚していないでしょうが)取材相手を尊重することが少なくありません。「教誨師」(堀川恵子著、講談社)の著者も同じです。

渡邉は原爆投下直後の広島で、大勢の人たちを見殺しにして逃げたことを認めています。あの時、逃げ出さずに手を差し伸べていたら彼ら彼女らが猛火に焼かれることがなかったかもしれない、逃げる途中で「水をくれ」と乞うてきた人たちに水をあげるべきだったのではないか、と何度も思い返したそうです。2011年の夏、渡邉は被爆体験の作文を書いていますが、自分よりひどい被害者を見殺しにした事実だけはどうしても書けなかったと言っています。

それについて著者の堀川は「極限の状況におかれた人間がとる行動は、もはや善悪の物差しで測れるものではないだろう」と渡邉を擁護しています。

しかし、その正反対の意見もあります。極限状態でこそ、その人の本当の内面が出る、という意見です。この時の渡邉を堀川が擁護したい気持ちは分かりますが、極限の状態だと善悪の物差しが通用しない、との理屈はかなり無理があります。そんなことを言えば、戦争犯罪などなにも存在しなくなってしまいます。いえ、戦争でなくとも、ほぼ全ての犯罪はその人にとって極限状態で行われるので、どんな犯罪の罰も問えなくなってしまいそうです。

人が人間集団の中で生活する限り、多少の変化はあっても善悪の物差しは存在します。ここは素直に「極限の状態で見せた渡邉の弱さだった」とまとめるところでしょう。